最近の国語教育は、実態はともかく指導要領の理念上は「話すこと/書くこと」などのアウトプットもそれなりに重視されている。ところがこれに対して「大事なのはまずインプット。中身がないのにアウトプットできるはずがない」という根拠で、「中高時代は読解中心にすべき」という主張をする人がいる。この「インプット優先論」について考えてみたい。
▼
結論から言うと、僕は「インプット優先論」には懐疑的な立場だ。といっても、インプットがいらないというわけではもちろんない。僕が思うのは、
(1) インプットとアウトプットはそもそも区別できるものなのか?
(2) 区別できるとして、インプットはアウトプットに先立つものか?
という点である。その2点についてのみ書いてみる。
▼
そもそも「インプット/アウトプット」は別のものなのだろうか。少なくとも、文章を読むことと書くことについて言えば、どちらも同じ「意味生産行為」ではある。同じ文章を読んでも人によって受け止め方が異なったり、同じ人でも年齢によって読んだ印象が異なる現象は、読むという行為が、一つのテクストを手掛かりに読者が意味を生産する行為であることを表している。少なくとも、「文章読解は受動的なインプット/作文は能動的なアウトプット」というような単純な二分法は通用しない。
だから、知識伝達型の単純な導管モデルを国語にあてはめて、「読解はインプット、作文はアウトプット」と区別することは、ちょっと単純に過ぎる。
▼
でも仮に、インプットとアウトプットが大雑把に区別できたとしよう。そうだとして、「中高まではまずはインプットを」ということになるだろうか? これも、僕はそうではないと思う。
もちろんインプットがないとアウトプットできないのは当然だ。でも、中高時代をすべてインプットに費やし続けたら、そのインプットすら満足にできないだろう。インプットされた知識や技能は、アウトプットして人に見える形にして、フィードバックを受けることを何度も繰り返して、ようやく定着する。そういう機会が(期末試験以外に)ない状態でひたすらインプットせよというのは、ちょっと辛すぎる要求だ。
たとえるなら、実際のゲームに出る機会のまま三年間部活で筋トレや基礎練に励めますか、ということ。たまに、「それに耐えてこそ本物」「それが教育」という人もいるのだが、多くの場合そう言う方々がやっているのは教育じゃなくて、しばきあげによるただのセレクションである。そういうやり方で最後までついてこれる人は、どう考えてもそう多くない。実際の授業でも、ひたすらインプットばかりやり続けたら、多くの生徒はただ「教科書を開いてその場にいる」だけで、そのインプットすら十分にできないままだろう。
▼
それよりは、最初にちょっとルールとやり方を覚えたらすぐに試合に出て、楽しい思いも不満足な思いもしてみるほうがいい。その時に、いいプレイヤーのプレーを見て、彼のようになるには何が必要かを考えつつ、筋トレや基礎練に向かった方がいい。インプットとアウトプットは、そんなふうに交互にやってくるべきものだと思う。少なくとも「中高はインプット期間」というのはあまりに乱暴なくくりなわけで、アウトプットすることがインプットの質をあげることは大いにあるのだ。
▼
僕は以前、担任クラスで三年間のかなりの期間、作文の授業をやっていたことがある。
自分で好きにテーマを選んで書いていいので、最初は生徒も楽しく書くのだが、二年目以降になると「ネタ切れ」(インプット切れ)の状態になるので、次第に大変苦しい思いを味わうことになる。そして、それこそこちらの狙いである。 苦しい場面で「こんな本があるよ」と切り口を変える本を紹介したり、読書を奨励したり、三年目には一学期まるごと各自で本を選んで読む期間を設けたりして、教師も生徒も苦しい時期を乗り越えた。まあ授業のやり方としては反省点もあるのだけど、こんなふうに、アウトプットをさせ続けることでインプットが必要な状態に追い込む、というのも一つのやり方だろう。
▼
というわけで、「まずはインプットから」という「インプット優先論」には、僕は懐疑的である。アウトプットとインプットは結局「不可分のサイクル」で、どちらが先とか優先とか言えるものではないのではないか。