倒れている丸太を元に戻す?戻さない? 保育スタッフの答えは…

学校がはじまっての最初の一週間が過ぎた。と言っても、風越の場合は学期始めの週は「づくキャン」(風越づくりキャンプの略称…だと思う)と称して授業はないので、国語の授業びらきもまだ。今年ホームスタッフではなくなってしまった僕は、裏方仕事をしたり、国語のミーティングをしたり、なんだかんだで自分の国語の授業準備はまだ着手できていない。水曜日、はじめて保育に入った日は、事情を知っている保護者の方が真新しい野外ウェアに身を包んだ僕に励ましの声をかけてくださって、恥ずかしいやら嬉しいやら。今週のエントリも、保育の一場面について書こうと思う。

写真は屋外に設置された「絵本屋さん」とその横で絵本の読み聞かせをしているスタッフ。屋外でもこんな形で絵本に出会えるのいいよねー。

目次

午後の遊び、丸太で転びかけた子

風越のフィールドには丸太がサークル状に並んでいる場所がある。子どもたちは毎朝この丸太に腰掛けて朝の集いをするのだけど、この日の午後は、2人の子がその丸太の上をひょいひょいとジャンプして遊んでいた。ちょうど飛び石を渡って川を渡る感じだ。なんとなく眺めていたら、サークルの途中に横に倒れている丸太があり、一人の子がそこに飛び乗った途端、丸太が滑ったのだ。その子は、ぐらりとバランスを崩して転びかけて、でも「あっ!」と思ったのは一瞬で、バランスを取り戻して、そのまま無事に次の丸太に飛び乗った。出来事としては、まあこれだけのことだ。

でも「危ないな」と思った僕は、その子がいなくなった後で倒れていた丸太を元に立て直した。それから「あれ?」と思ったのだ。これって「大人が余計な先回りして危険をなくしちゃった」例なのかな、と。思い出したのは、本城さんの「森のようちえんぴっぴ」での手袋を燃やすエピソード。こんな風に、怪我をしそうでもただ見守って観察するのが正しいのかな?

なお、この時の「ぴっぴ」のスタッフは、今は風越のスタッフである…

どうすべき?保育スタッフに聞いたら…

気になって後から保育スタッフに「どう思います?僕がやったの余計だったんですかね」と聞いてみた。返事はとてもシンプルだった。「その子次第です」。「でも今の時期は、特に新しく入ってきた子だとその子の身体の敏捷性とか手足の操作とかがまだよくわからないので、見ていますかね」という付け加え付きで。

この返事、あまりにシンプルだけど、「その子次第」ってほんとその通りだよなあと思った。あの本城さんの手袋エピソードだって、きっといつでもどこでも「見守る」のが正しいわけじゃない。出来事は常に「その子」と「対象」(火や手袋や丸太や…)の間に起きているわけで、「その子」を抜きにしてどうすべきかなんて考えられないのだ。なるほどなるほど。さすが保育スタッフ。勉強になるなあ。

でも、妻の反応は…

これだけでも個人的には面白エピソードなんだけど、さらに面白かったのはこの日の夜のこと。妻にこの出来事を話したところ「え?」という反応だったのだ。妻曰く、「あなたも言うじゃない、この本がいい本かどうかは子ども次第だって。それと何が違うの?」。

….た、たしかに!全く気づいてなかったけど、それと同じなのかも…。国語と保育にも共通点があるんだなあ。

びっくりしている僕に、妻は続ける。「自分の得意な領域ではできることが、馴染みのない領域だとできないってことは誰でもよくあるから、保育でのことを自然に国語に置き換えられるようになったら、保育に慣れてきたってことじゃない?

国語に置き換えて考えてみる

これは、本当にその通りなんだろう。よく言われるように、知識の転移はそう簡単に起きない。ある分野で熟達するうちに身につける知識には、他分野でも応用可能なものがあるのに、それがすぐに使えるようになりはしないのだ。僕の国語での知識が違う場面にも転移するには、きっと相当な時間がかかるはずだ。でも、その時間を少しでも短くするために、「国語に置き換えるとこうかな」と意識的に考えてみよう。

保育スタッフの専門性にすごいと思ったこと。でも実は国語でも似たようなことを考えていること。にもかかわらずそのことに全く気づいていなかったこと。この3つは、どれもが大事な自分の現在地だ。いつか見返す時のためにここに記録しておくことにする。

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