人は物語の力で生きている。最近、改めてそう思う出来事があった。詳しいことはここでは書かない。その場に立ち会った友人たちの間で閉じておくべき物語だと思うから。僕達はその出来事を経験した後で、少し遅い夕食をとりながら、その出来事をどう受け止めたかを語り、自分自身の過去やこれからについて語った。僕は自分たちの関係がもう一段深いところに静かに降りていったのを感じ、当面はそれで充分だった。
その夜、実感として強く刻まれたのは、物語が、あるいは物語ることが人間を生かしているのだということと、自分もまたそうして生きており、誰かの物語の登場人物にもなりうるということだった。
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物語の力については、僕にも多少の経験がある。数年前、ハードワークが祟ってメニエール氏病にかかり、鬱状態にもなり、しばらく仕事を休み、人生で初めての入院をした。僕にとって晴天の霹靂だった。ただ、病院では僕は耳鳴りと目眩だけの圧倒的に元気な患者で、周囲の人々の愚痴を聞いたり、同じ部屋の老人が突然亡くなってできた空きベッドをぼけっと見たりしながら、自分にふりかかった災難について考える時間だけは充分にあった。その時に、この災難を自分がどう受け止め、これからどう生きているのかを考えざるを得なかった。それは、自分の物語の「終わり」を少し視野に入れながら、自分がどういう物語を生きたいかを考えることだった。その病気があってから、僕の仕事や家庭への姿勢は徐々に変わった。僕が今こうしてあの病気を「過去の出来事」として語っているように、かつての僕には不意打ちだった病気と入院も、今では自分の物語の一部に組み込み、組み込むことで軌道修正した物語の中を生きている。
このように、現実が突然その不条理さを剥き出しにする時、物語の力は一層求められる。そもそも生まれたのも自分の意思ではない。生きている途中も、突然の事故・親しい人の突然の死・失恋・大災害・小さな違和感の積み重なりなど、想定しない多くの現実が僕達に襲いかかり、物語に軌道修正を迫る。そういう時に僕達は困惑し、途方にくれ、「なぜこんなことになったのか」「なぜ自分がこういう目にあわないといけないのか」をひたすらに問う。しかし、何度も問いを繰りかえし、語ることを通じて、次第に「この出来事」を物語という形に変換し、時間軸の中に配置して、やがて自分の人生における「過去の出来事」としてその意味を語りだすことさえできるようになる。人は、物語によって現実を受け止め、物語によって現実を作り出す。それは、僕達の弱さであり、強さである。
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ところで、この夜の出来事を経験する前に、僕はちょうど勉強会で「なぜ文学作品を授業で扱うのか」ということを勉強仲間と議論していたのだった。人が物語の力によって生きることにあらためて立ち帰る時、国語の授業で文学作品を読むとは、いったいどういう経験なのだろうか。そういうことを、時々思い出したように考えている。