[読書]「基本ってなに?」をもう一度考え直したくなる本。甲野善紀×方条遼雨『上達論:基本を基本から検討する』

「上達論」は武術の本なんだけど、学ぶことについて示唆的な面白い本。著者の一人甲野善紀さんは古武術の研究家で、武術の稽古から得た身体技法を音楽や医療や色々な分野に応用することを提言している人。で、ぶっちゃけて書くと、僕はもともと、こういう「東洋・古武術・達人・自然」みたいなのがキーワードになる人って、それを妙にありがたがる周辺の人が嫌であまり近づかないタチである。でも、前回書いた「書くことの基本ってなんだろう?」からこの本を思い出してこの際だからと読んでみた。そしたら、良い意味で「基本ってなんだろう?」がわからなくなる本で面白かった。武術のことは全くわからないけど、面白かったポイントを忘れたくなくて、エントリを立てて書いておく。

書くことの基本って、いったいなんなの?

2022.07.16
なお、著者欄には甲野善紀さんとお弟子さんの方条遼雨さんの2名の名前があるが、甲野さんは後半の対談相手に出てくるだけで、実質的には方条さんが甲野さんの教えを噛み砕いて書いている構成になっている。実質的な著者は方条さん一人と見て良いだろう。

揺らぐ「基本とはなにか?」

この本でまず面白かったのは、最初の数ページで「基本」の問い直しをおこなっているところである。「そもそも、これから起きる出来事はすべて未知の出来事である」という前提に立つ甲野さんは、スポーツでの「素振り100回」のような基本練習を初心者に植え付けることを否定している。それによって、深く原理を考えないままに素振りの感覚を身体化させてしまい(「下手を植え付ける」)、そこから自由になれず、未知の出来事に対応できなくなることを批判しているのだという。

逆に、自分の解釈を持たずに目の前の事象に「まっさらになる」ことを重視する。これは、これまでに染み付いた癖を「忘れる」こと、「捨てる」ことだ(この辺は、「はいはい、来たよー。アンラーン、アンラーン」と思いながら読んだ)。これが大事なのは、自分の持っている経験や思考のレンズをいったん外さないと、ありのままの対象を見ることができずに、対象から偏った(自分好みの)情報ばかり引き出してしまうからである。そうなると、結局変化できない=学べない、事態に陥ってしまう、ということだろう(この立場から、甲野さんは「豊かなアナログ情報をそのまま捉える」経験としての自然体験を重視してもいる)。

本書の方条さんの記述によると、甲野さんは非常に技の変遷が激しい人で、自分の基本の型を持たないのだという。「学習とは変化すること」という学習観でいうと、非常な「学び上手」なのだろう。自分のこれまでの経験を忘れてまっさらな心で対象を見るからこそ、他の人が概念レンズで「あれと同じだな」と雑に見てしまうところを、解像度高く見つめて情報を引き出し、そこから学ぶことができる。だから、10年以上やっていた自分の技を変えてしまったり、70歳を超えてからが一番体が動く状態になったりするのかな。まあ、甲野さんは素直にすごい人である。

一時的に下手になることを受け入れる

ところで自分は、この「変わる」ことに苦労するタイプだ。いつかのエントリに書いたけど、軽やかには変われない。だって、本書でも書いてあるが、人はそれまでに蓄積した癖に「依存」するからである。それまでのやり方を変えることは、一時的には下手になることを受け入れることだ。表面的には下手になってしまうことを承知の上で、深層において自分を形成する根本原理を組み替えていく。それはなかなか難しい。ライティング・ワークショップをやり始めた頃の自分が、一斉授業をやっていた去年までの自分よりも明らかに授業が下手で生徒の反応も悪くなって、落ち込んでいたことを思い出す(いやまあ、じゃあ今では一斉授業をやっている自分を追超えてるのかというと微妙なんですが…)。筑駒から風越に来て3年目、前の職場での経験をアンラーンできているかというと、さてどうなんだろう。

失敗を笑い飛ばせる環境づくりの大切さ

この「新しいものを受け入れいる過程で一時的に下手になる」現象は、作文でも良くあることだ。新しいことに挑戦すれば大抵下手になる。だからこそ、挑戦が自由にできる実験室的な楽しい雰囲気が上達に大事なことも、僕自身わかってきた。方条さんが、多くの人が上達するには「失敗を笑い者にするするのではなく、笑い飛ばせる」環境づくりが大事だ、と書いていたが、これは武術だけでなくどの学習にも共通のことなのだと思う。

ただ、残念なことに自分はそういう環境構成が得意なタイプではないな、とも思っている。これは、自分が元々持つ「積み上げ」系の真面目さが好きな性分とか(それこそ、基本の素振りを100回やってしまう系のコツコツレッスンが、自分は結構好きである。鍛錬!鍛錬!)、ユーモア感覚が足りてないところとか、そういう部分にも起因しているのだろう。

「期待」と「許せないこと」というフィルター

では、そんな自分が、子供たちが息苦しくならない環境構成をするために必要なことってなんだろう?と考えたときに、一つのヒントになりそうなのが、本書にあった「期待」と「偏見」の話だった。これは元々は「フィルターを通さずに眺める」という文脈の中で出てきた話である。

方条さんは、「期待」を「確定していない未来に依存する行為」と定義して、それがありのままを見る目を曇らせるフィルターになることを指摘する。これは良くわかる。特定の子に「こうなってほしい」と期待して、そうならないから勝手に失望して怒ってしまう事例。あるいは高名な先生の授業を見学するときにも「きっとこの人は素晴らしい授業を見せてくれるだろう」と思い込んで、なんでも良く解釈してしまう事例。これらは、いずれも「期待」が事実を見る目を歪ませる例だ。

また方条さんは、自分にとって許せないこと=「偏見」が思考の柔軟性を失わせることも述べている。これも、身に染みてよくわかる。卑近な例で言うと、僕は基本的に「ちゃんとやらない」人が許せないタチである。テーマプロジェクトの最中に、自分の取り組む課題に集中しないで、Youtubeやdiscordで遊んでばかりの子たちが許せなくてイライラしちゃう、とか…(笑)

この「期待」も「偏見」も、自分が自分の心で生み出しているフィルターであり、僕は勝手に自分が生み出したフィルターで一喜一憂したり怒ったり、「一人相撲」してるんだな、としみじみ思った。だとしたら、「まっさらに事象に向き合う」には、「期待すること」も「許せないこと」も手放していく必要がある。

そして同時に、授業者として教室の環境構成を考えたときにも、「期待」と「許せないこと」を手放していくことは、教室を気軽に失敗できる実験場にしていく上では大事なんじゃないか、とも思った。僕の「期待」も「許せないこと」も、教室においては、僕が心的に子供達を一定の方向に方向づけ、いわば縛るものである。そこから外れるとがっかりしたり、イライラしたりしちゃうんだから。そういう場で、子どもたちが自分のやりたいことに挑戦してのびのび失敗できるかというと、やはりそうはならないだろう。

「期待」と「偏見」をどう捨てる?

だから、「期待」と「許せないこと」を少しでも捨てられるなら、個人的にも、授業者としても、その方がいい。ただ、それをどう捨てるかって、精神修養のようなもので、実際にやるのはとても難しい。自分にとって希望なのは、方条さんが、「偏見」を捨てること、つまり「許す」ことは、適切な難易度設定をすれば誰にでも習得できる技術だと述べていることだ。方条さんがこう書いているのは個人的な経験あってのことだろうから、自分でも訓練して「期待」や「偏見」を捨てて行けたらいいなと思う。

学校教育にも適用できるかは「?」だけど…

とまあ、読みながら我が身を振り返って色々と考えてしまう本だった。つまり、面白い本だった。ただ、この本はあくまで武道をやっている人たちの本なので、どこまで普遍性があるのか、例えば学校教育に適用できるのかは正直わからない。ほら、オリンピック選手やノーベル賞受賞者の「教育論」を過度にありがたがる人って教員にもいるけど、「学校教育外の超一流の人がいう教育論」って、そもそもどこまで学校教育に敷衍できるかは怪しいしね….。学校教育って、良くも悪くも「不自然な」システムだから(不自然=悪い、という意味ではありません、念のため)。

率直にいうと、ダニエル・ウィリンガム『教師の勝算 勉強嫌いを好きにする9の法則』みたいな認知科学の成果をまとめた本の方が、学校教育には向くんじゃないかと思う。そっちには「十分な練習無くして知的活動はマスターできない」って書いてあります。計算練習も大事ってことね。それにしても、こういうパラダイムの違いは面白いなあ。西洋医学と東洋医学みたいなもんなのかな。それとも、どこか高い次元で統合できるものなのかな。

[読書]認知心理学の成果を教育現場に活かす。ダニエル・ウィリンガム『教師の勝算 勉強嫌いを好きにする9の法則』

2019.05.01

そういうわけなので、個人的には、この本を手放しでありがたがる気もないんだけど、上達論として示唆的だし、内容が面白いのは間違いない。特に、「許せないこと」や「期待」から自分を解放すること、自分でも小さく挑戦してみたいと思います。

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