色々な分野でAI(人工知能)の可能性が取りざたされているが、コンピュータに文章を書くことができるのだろうか。この本の筆者たちは、「きまぐれ人工知能プロジェクト(きまぐれプロジェクト)」というプロジェクトでコンピュータによる文章生成に取り組んでいる。そして、コンピュータが文章を自動生成するプログラムを開発し、星新一賞というショートショートのコンテストに応募してみたら、なんと一次予選を通過してしまったのだ。コンピュータはどのようにして小説を「書いた」のだろうか。そして、文章を書くとはどういうことで、それに必要な創造性とはいったい何なのだろうか?
目次
きまぐれ人工知能プロジェクト・作家ですのよ
https://www.fun.ac.jp/~kimagure_ai/
「コンピュータが小説を書く」ってどういうこと?
そもそも、コンピュータが小説を書くとはどういうことだろう。筆者は、小説生成のプロセス次の三段階に分けているのだけど、
- 世界構築:世界観の設定やストーリーの展開を考えるプロセス
- 文章化計画:そのストーリーをどのように語るかを決めるプロセス
- テキスト生成:実際に書くプロセス
このうち、筆者たちが当面のところ取り組んでいるのは主に文章化計画のプロセスやテキスト生成であるというところが大切だ。この「きまぐれプロジェクト」でも、世界観の設定やストーリーの展開のパターン(いわば、小説の部品や組み立て手順)は人間(プログラマー)が用意しておいて、コンピュータのプログラムのしごとは、何万通りもあるその組みあわせから小説を実際に出力することにある。
そして、この本には、上記のやり方で実際に書かれた小説「コンピュータが小説を書く日」「私の仕事は」が収録されている(下記リンク先でも読める)。驚いたことに、これがなかなかサマになっているのだ。星新一の作品データベースをもとに作った「私の仕事は」なんて、うちの中1生徒がライティング・ワークショップで書いてきそうな作品だ。これは素直にびっくりしてしまった。
きまぐれ人工知能プロジェクト・作家ですのよ(成果)
https://www.fun.ac.jp/~kimagure_ai/results/index.html
「創造性」ってなんだろう?
ところで、「世界構築は人間の仕事」と聞くと、果たしてこれで小説を「書いた」といえるのかと疑問を持つ人もいるだろう。ただ、本書で出ているたとえ話を使えば、これは「予め用意してあるレゴのキットを使って、新しいレゴブロックの組みたてを考えた」ようなものである。
レゴや様々な積み木が「創造力を育む知育玩具」扱いされていることからもわかるように、僕らは既存のレゴや積み木を使っても、その組み合わせのあり方に「人間の創造性」を認めている。だとしたら、ここでも話は同じにすべきなのだろう。もしも僕たちが、人間よりも厳しい創造力の条件をコンピュータにだけは突きつける、というダブルスタンダードを潔しとしないのなら。
この本が僕にとって面白いのは、こういう「書くことにおける創造性とは何か」「小説を書くとはどういうことか」「誰が小説を書いたのか」という問いに直面させてくれるからである。
文章の「読めない」東ロボくん
ちなみに、著者はあの「東ロボくんプロジェクト」の現代文にも関わっていて、本書にはセンター現代文を東ロボくんがどう解いたかという話にも一章がさかれている。東ロボくんは文章を人間のようには読めない。それでも問題はある程度(当てずっぽうよりもはるかに高い確率で)解けてしまう。それはなぜなのだろう。筆者によるとその理由は、
- センター試験の評論文は、「設問文と根拠となる部分の文字のオーバーラップ率が高い解答」を選ぶことで、約半分が正解できる。
- センター試験の小説の心情問題は、過去問の正解選択肢と類似度がもっとも高い解答を選ぶと、約半分が正解できる。
なのだそうだ。1つ目は、「評論問題では本文との文字や単語の一致率が高いと正解になりやすい」ということ。2つめについては、こういう現象が起きるのは心情問題の正解選択肢が「道徳的に正しいもの」が多いことに由来するのだそうだ。小説では、直接書かれていない心情の把握が求められるのだが、結局それが「道徳的な好ましさ」を逸脱することがないので、「迷ったら道徳的に正しいものを選ぶ」が解法として一定の効果をあげてしまっているということである。「国語の授業は道徳だ」とは石原千秋をはじめとする各氏が散々言っていることではあるが、興味のある受験生はこの部分だけでも読んでみたらどうでしょう?
将来の「書くこと」はどうなる?
さて、なかなか楽しく読ませてもらったこの本だけど、書くことの教育に携わる身としては、やはり、こうした動きが人間の書くことにどういうふうに影響するだろう、という点に興味がわく。こうした技術が人間が文章を書く営みにどう応用されるだろうか。
定型的パターンの文章自動生成
まず言えるのは、定型的な文章はほとんどコンピュータに任せることができるだろう、ということだ。これは、定型文の入力をコンピュータが補助するレベルであれば色々な文字入力システムががすでにやっていることからもなんとなく想像がしやすい。
実際、新聞記事の執筆では、人工知能による文章の自動生成が一部取り入れられているという(下記エントリで紹介した本の序盤に、共同通信での話が書かれていた)。
筆者によれば、就活のエントリーシート、各種マニュアル、各種定型的なメールなど、定型的パターンが存在する文章は、AIによる自動生成が実現可能だそうだ。こういうのは早く実用化されてほしいですね。
詩や俳句の自動生成も可能
「定型的な文章はコンピュータだけど、創造力が必要なところは人間のしごと」なのだろうか? いやいや、俳句や短歌などの短詩型文学の作品群も、(歓迎されるかどうかは別にして)自動生成できるし、実際にそういうサービスはすでにたくさん存在している。「俳句」「自動作成」などでググってもいいし、以前僕のブログでも佐々木あららさんの「星野しずるの犬猿短歌」を紹介した。
ここで、佐々木あららさんは次のように言っていた。
星野しずるの短歌をたくさん読んでいくと、何首かに一首、はっとさせられる短歌を見つけることができると思います。人間ではつくれないような新鮮な暗喩をつかったり、時には逆に、まるで人間がつくったかのような深淵な意味が読み取れてしまう短歌も出てきます。まずはそのおもしろさを楽しんでほしいですね。その上で、人間の持つ「理解しようとしてしまう力」の潜在的な高さについて驚いたり、読み手依存型の創作の怖さに気づいたり、創造性がほんとうに発揮されねばならない場所とはどこなのか再考したりしていただければ幸いです。
そう、読者の解釈の余地が大きい短詩型文学では、プログラムが自動作成する五・七・五・七・七の言葉の配列を、読者が「理解しようとする力」を発揮することで、「作品」として成立させてしまう。もちろん全ての俳句や短歌が、「二物衝撃」のような読者の想像に委ねるタイプの作品ではない。しかし、読者をうならせ、コンクールなどで入選する俳句や短歌は、わりとあっさりと作られてしまうだろう。これを「人間の読む力に頼っているからコンピュータに創造力があるとはいえない」とは、まさか言えないよなあと個人的には思う。人間の書き手も同じことをしているんだし。
パターン化された定型的文章と、読者の解釈の力に依存する短詩型文学。この両極は、どちらもコンピュータでまかなえてしまうのだろうか。どうなんだろう。だとすると、人間の書く文章が強みを発揮するのはどこなのだろうか。例えば、読者を想定していない小説などの作品と異なり、具体的な文脈や場に根ざした文章は、自動生成というわけにはいかなそうだ。コミュニケーションとしての書くことの役割が、一層浮き彫りにされたりするのだろうか。
そんな僕の素人予想はさておき、文章の自動生成が人間の「書くこと」にどんなふうに影響するのか、この本の筆者の方たちの予測を聞いてみたいなあ。強くそう思った本だった。
面白いですね。将棋や碁の世界に続いて、コンピュータもどんどん作品を発表して、人間には思いつかないような作品を提供してほしいと思います。
また、国語の教師に限らず、生徒に書かせるだけでなく、自分たちも作品を書けばいいのにと思います。芸術科目の教師ほどには創作とは縁がなさそうで、意外と書いていない人は多いと思います。実際にさまざまな文章を書くと、書く指導も実際にできると思います。そういう経験がないために、「読解」に偏り、また教師という意識の過剰から「(安物の)道徳」に偏ってしまう傾向が出てくるのではないでしょうか?(そうでもない?)
いやあ、教師が書かないから…というところは、おっしゃる通りではないかと思います。教師が書くことの効果を強調する研究は英語圏にはあるんですが、日本語だとなかなかないですねえ…。書くことの効果は大きいですね。