[読書]「好き」との出会いが全てを変える? 水野敬也『顔ニモマケズ』

ここしばらく、色々と重なって気持ちが落ち込むこともあり、読書やブログから離れていた。夏休みに入ったし、リハビリがてら更新を再開しようと思う。これからしばらく、読み手のことを考えずに未来の自分に向けて書いている振り返り的な記事が多くなりそう。今回は、7月末にやった、信頼できる2名の仲間との読書会で考えたことから。

目次

「見た目問題」を抱える人たちの本

7月末、信頼できる2名の仲間と読書会をした。題材にしたのは水野敬也『顔ニモマケズ』だ。この本、様々な「見た目問題」を抱えるインタビュイーが自身の半生と現在について語っている。僕は以前にも通読したことがあるが、今回の読書会では、そのうちのタガッシュ「「好きなもの」との出会いがすべてを変える」を読んだ。

この本の関連図書としては岩波ジュニア新書のこれもオススメです。どちらも同じ団体(NPO法人マイフェイス・マイスタイル)の方が関係してます。

タガッシュさんは、生まれつきの口唇口蓋裂で唇や上顎が繋がっておらず、手術をしても見た目が特徴的だという問題を抱えている。中学生時代にはひどいいじめにあい、死のうかと思ったこともあったそうだ。ところが、デザイン科のある高校に入って、そこでの個性的な友人と関わる中で、その思いを変えていく。

「尺度がない世界」にどうやっていくの?

特に面白かったのは、中学時代までは顔のせいで「普通じゃない」と思っていたタガッシュさんが、高校に入って個性的な友達に囲まれて「私は普通だからこのままだとうもれてしまう」と焦るようになり、そこからさらに自分の好きなことに没頭する中で、それが気にならなくなっていく、というところ。「私って異常…」から「私って普通…?」への転換も大きな変化だけど、そこから自分と他者の差異が気にならなくなっていくのはすごいな、と感じた。本書ではあまり書かれていないんだけど、どういうプロセスで変化したんだろう。読書会でも、そこが話題になった。

「私って異常…」も「私って普通…?」も、どちらも、他者と自分を比較して、どっちが良い・どっちが悪いという比較の「尺度」がある点では同じだ。では、そこからどうやって「私には絵がある」ことを柱に他者の存在が気にならなくなる「尺度がない世界」へ行くのだろう。タガッシュさんはそんな状況を「みんながそれぞれ「異物」だから、そもそも異物が存在しない」と言っているが、こういう心理状態に至れるのであれば、それは素晴らしいことだと思う。

「好き」から広がるあたらしい世界

また、タガッシュさんは、「自分の好き」を通じて出会えた世界の開放感を、次のように書いている。

それまで自分がいた世界は、実はとてつもなく「狭くて偏った場所」で、本当の世界はもっともっと広くて、顔のことなんて全然気にしない人たちや、違う価値観で生きている人たちがたくさんいたんです。そのことを経験した今は、どんな人でも必ず自分に合う場所を見つけられるくらい、世界は広いと思っています。

周囲を気にせず、自分が好きなものに打ち込むところから、今いる世界の狭さに気づき、外の、自分に合う場所を見つけに出ていく。こういう開放感、素直に素敵だな、いいなあと感じる。

無目的な「好き」を持てないことへの劣等感

ところが、我が身に引きつけて考えると、「好きなものが見つかれば世界が変わる」というタガッシュさんの語りに対しては、「ほんとそうだよね」と素直に共感できない部分もある。というのも、頭では「いいなあ」とわかっても、その感覚を僕は体感していないのだ。たとえば、タガッシュさんにとっての絵のように、それが好きで、比較の尺度を持たずに没頭できるものが、僕にはない。というのも、自分の場合、やりたいことがすべて自然と「仕事」という目的に結びついてしまうのである。

これは、僕のコンプレックスだなあ。というのも、風越では「子どもの楽しさやわくわく」や「無目的な遊び」を大事にする人が多い。それはそれでいいよなと思いつつ、でも、「目標をたててそれにむかって合理的に進んでいくことが楽しい」自分には、「目的なく楽しい」感覚が、正直なところよくわからないのだ。従って、子どもの「目的なく楽しい」活動に対しても、心から前向きに評価することが難しいなと感じている。つい「それって何につながるの?」が気になってしまう。

だから、まず自分が無目的な遊びを経験するといいのかなとも思うけど、無目的な遊びの価値を経験するために無目的な遊びを経験するって、すでに合目的的な思考なので、そのループからは永遠に抜け出せない(笑) かくして劣等感は続く。このへんのこと、数年後の自分はどう考えているんだろうな。

本を媒介にお互いの物語を交流する読書会の良さ

今回の読書会、このタイミングでタガッシュさんの文章を読めてよかったな。また、(信頼できる仲間との)読書会という形式も良かった。今回は、「納得!いいね!共感!と思ったところ一つ線を引く」「ほんとかな?違和感、モヤモヤと思ったところ一つにも線を引く」というシンプルなルールでの読書会だったのだが、やはり、自分ひとりで読むのとは全然違う。本に書かれていることを読み手である自分の問題として引き受け、一冊の本を媒介に互いの物語を語り合い、聴き合ううちに、自分の思考が開かれていく。結果として、一人でこの文章を読んでいた時とは全く違う本との出会い方をする。お互いの考えや経験を共有しあうことで、自分ひとりでは行けないところに行ける。もちろん、「正確に筆者の言いたいことを読む」読み方も必要だけど、これもまた一つの本の読み方だろう。

いまのタイミングで再読できて良かった本

今回、読書会という形式を通じてこの本ともう一度出会えたことは、僕にとって幸運だった。というのも、私生活では自分の子どもの「自分はこれが好き、これをやりたい」にどう向き合えば良いのかわからないタイミングでの読書だったからだ。タガッシュさんの、「好き」さえあれば世界が開けるという力強い断言に出会えて、色々と考えるところがあったな。そうそう、この本、そもそもは見た目を気にする中学女子のためにどうかなと思って去年選んだ本だったのだ。生徒のために探した本が、今度は自分を助けてくれる。そんなめぐり合わせも感じた一冊だった。

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