書くことの基本って、いったいなんなの?

最近、なんとなく「書くことを教えるときに一番重要な「基本」ってなんだろう? 何ができるようになれば、書くことの「基本」ができたと言えるのだろう」と考える機会があった。そんなのすぐにわかるわけないのだけど、今日は現段階での自分の考えをまとめるためのエントリを書いてみる。

写真は6月に行った黒斑山から見られる浅間山。春先に行った時は雪景色だったので、すっかり一変した夏模様の浅間山に驚きました。それにしても夏の浅間山、浮世絵に出てくるような、ちょっとぬぼーっとした感じの山じゃないですか?

目次

学習指導要領に見る「書くことの基本」

この問いを考えるきっかけになったのは、下記エントリで触れた軽井沢町での研修だった。

地域で広がる「作家の時間」の輪...公立小学校で研修講師をしてきました!

2022.06.30

この時に、「書くことの授業のゴールって、別に手紙の書き方や説明文の書き方それ自体を学ぶことではないんですよ」と言いたくて、学習指導要領にサラッと触れたのだ。

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育てるため,次の事項について指導する。
ア 経験したことや想像したことなどから書くことを決め,書こうとする題材に必要な事柄を集めること。
イ 自分の考えが明確になるように,事柄の順序に沿って簡単な構成を考えること。
ウ 語と語や文と文との続き方に注意しながら,つながりのある文や文章を書くこと。
エ 文章を読み返す習慣を付けるとともに,間違いなどに気付き,正すこと。
オ 書いたものを読み合い,よいところを見付けて感想を伝え合うこと。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 想像したことなどを文章に書くこと。
イ 経験したことを報告する文章や観察したことを記録する文章などを書くこと。
ウ 身近な事物を簡単に説明する文章などを書くこと。
エ 紹介したいことをメモにまとめたり,文章に書いたりすること。
オ 伝えたいことを簡単な手紙に書くこと。

教科書では、「新聞を作ろう」や「手紙の書き方」のように単元構成されることが多いので勘違いしやすいが、ジャンルごとの文章の正しい書き方を学ぶことは、学習指導要領においては主たる目的ではない。「たとえば」「次のような言語活動を通して指導する」とあるように、あくまで「例示」に過ぎないのだ。学習指導要領では、教えることの重点は(1)の部分、つまり、書くプロセスにある。おそらく、学習指導要領の作文教育観は、「書くことの基本は、プロセスを身につけること」という作文教育観なのだろう。

書くことって、つまり、何を教えること?

以前、書くことを教えるときのディスコース(語り方)を分類した論文を紹介したことがある。それによると、作文教育の言説には、次のような類型があった。

「書くこと」についての語りをざっくり分類すると...

2015.08.09
  1. A Skils Discourse(言語技術派)
  2. A Creativity Discourse(創作派)
  3. A Process Discourse(プロセス派)
  4. A Genre Discourse(ジャンル派)
  5. A Social Practice Discourse(社会的実践派)
  6. A Sociopolitical Discourse (社会政治的文脈派)

こうした類型と、それぞれの流派が何を基本と考えるかは、密接に関係し合う。たとえば、「書くこととは書記言語の技術を教えることである」と考える言語技術派の人であれば、書くことの教育の基本を文法の習得に置くかもしれない。そして、文法的に正しい短文を積み重ねることで、正しい長文を書けるようにしていくだろう。ジャンル派の人であれば、「手紙」「物語」「説明文」などのジャンルごとの特徴を知り、運用できることを書くことの基本に置くだろう。社会的実践派の教師であれば、書くことの基本は、まず書く文章の目的やオーディエンスを把握することだ、と言うかもしれない。これはそれぞれの信念に裏打ちされた話なので、議論をしたって神学論争にしかならないし(本物の神学論争を知らない自分が比喩でこう書くのは失礼かもしれない…)、あえていえばどれもそれなりに正しく、それなりに瑕瑾を含んでいるのだろう。

書くことの基本は、好きなものを真似ること?

その中で、さて、僕自身は何を「書くことの教育の基本」だと思っているのだろう? 僕自身は上記の分類で言うと「2:創作派」に属する人で、自己発見としての書くことを重視している。で、ライティング・ワークショップをしていると、書くプロセス(ライティング・サイクル:作家のサイクル)を教えることを重視している人もいるが、僕はそれほどこのプロセスには重きを置いていない。それよりも、最近はリーディング・ワークショップ(読書家の時間)とライティング・ワークショップ(作家の時間)を関連づけることを意識しているせいか、「自分が好きな作品を真似すること」を強調している。つまり、

  1. 自分の好きな作品を見つける
  2. その作品の自分にとっての「良さ」を見つける
  3. その「良さ」を言語化する。
  4. その「良さ」を自分の作品に取り入れてみる
  5. 上記のサイクルを繰り返して、自分の作風を作っていく

という流れの中で、徐々に自分らしさを作っていくイメージだ。このプロセスをもう少し丁寧に書くと、次のようになる。書き手は、まずは他人の書いた文章の中で好きなものを見つける(第一段階)。そしたら、「なんとなく好き」な段階から、その「良さ」を、たとえつたなくても言語化する。言語化することで、その「感じ」の一端が可視化され、自分の作品に取り入れることができるようになる。書き手はこうして自分の好みの作品の力を借りながら、自分の作品を作っていく。さらに、複数の作品にまたがってこの作業を繰り返すことで、徐々に自分の「作風」が出来上がり、書き手としての自分らしさが見つかるようになる。

これは完全に「真似から始める文章論」だが、自分が好きなものを真似することは、同時に自分が好きな自分を作っていくことでもある。どうせ100パーセント真似なんてできっこないのだから、そこには必ずオリジナリティも生まれる。外部に「自分の作品」として公表する時には注意が必要だけど、僕は自分の授業内では気にせずにアイディアも文体もどんどん真似するように子どもたちに言っている。

良さを見抜き、言語化できることが大事?

そして、この流れの中で大事なのは「2」や「3」の「良さを見つける」フェーズだろう。書かれた文章の良さを見つける目を持つことができれば、そしてその良さを言語化できれば、人はその助けを借りてどんどん書いていける。新しいジャンルの文章に出会った時も、その文章の「よさ」を見抜いて言語化できれば、それを手がかりに新しいジャンルの文章を書くこともできる。

だから、書き手である子どもたちに必要なのは「良いところ探し」の練習なのだ。自分の好きな作品の、そして友達の作品の良いところを探す。その経験を積み重ねていけば、他の作品や友達の作品からどんどん自分を作っていけるはずだ。というわけで、僕はここしばらく、自分の作文授業での子どもの交流活動は「良いところ探し」に徹底している。前はお互いに助言をしたり、質問をしたりもしていたのだけど、やめてしまった。助言はできるに越したことはないが、「人の作品に助言する」って相当ハイレベルな行為で、助言する側が一方的にご満悦になっているケースも少なくないのである。

ということで、最近の僕は、書くことの基本は「好きなものの良さを見つける目を持つこと」「それを語れる言葉を持つこと」だと思っている節がある。これは、あくまで現時点(2022年7月)の考えで、きっと今後変わっていくだろう。どう変わっていくのかも楽しみにしながら、現時点の考えをここに書き残しておきたい。

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