こんにちは、「自分が思いついたことは、たいてい大村はまが自分にできない水準でやってる」と思っておけば8割方は正解だと思っているあすこまです。実は、ライティング・ワークショップの核になる「作文を書く途中の指導」についても、アトウェルが実践するずっと前に、大村はまはやっています(別に大村はまに限りませんが…)。久しぶりに大村はまの作文指導に目を通したら、相変わらず化け物じみていたので、忘れないようにここにメモ。
目次
作文の評価をどうするか?
今回読んだのは「中学校・作文の評価をどうするか」という文章。初出は1962年「国文学解釈と教材の研究」7巻13号、僕は「国語教育基本論文集成」第30巻で読んだ。テーマはずばり作文指導の「評価」である。すごいなと思ったポイントを箇条書きにメモしていく。
プロセス全体への評価
まず、ここで大村はまが上げている評価の観点は、
- 書く前の自己評価
- 書く間の指導者による評価
- 書く間の自己評価
- 書いたあとの作品の指導者による評価
- 書いたあとの作品の相互評価
と、実に多岐にわたっている。まず、このプロセス全体にわたる評価が素晴らしい。「書く前の自己評価」は、自分がやってないポイント。
Discovery Writingを重視
このうち「書く前の自己評価」では、最初に次のような項目が掲げられている。
書こうとする題目について、自分として新しく考えたことがあり、新鮮な感動を持っているか、それを相手に訴えたいという意欲があるか。とくに、このごろ書いたものと同じような題目である場合は、ふたたび書く意義がはっきりしているか。
これは、書く当人にとって発見のある文章=Discovery Writingを重視するという姿勢だ。単にうまい、分かりやすい、ではない。当人にとって意味のある文章であることが大事。これは僕も大事にしたい姿勢で、生徒にもそう呼びかけている。
「書いている間」の観察の観点が化け物すぎる…
こんな風に「これで40年以上前なんだからすごいなあ」と思うポイントがいくつもあるのだが、中でも度肝を抜かれたのは、「書いている間」に教師が生徒をどんな風に観察するか、というところ。ライティング・ワークショップの用語でいうと、「ひたすら書く時間」の間に、教師が何を見てカンファランスするのか、というところである。全部書き写すのは大変なので略記すると、大村はまは次のようなポイントで書き手を観察するのだという。
書き進んでいる場合、想があふれて書き進んでいるよい状態か、浅く流れてきたためであるか。(生徒のようす、態度からもわかるが、それ以上に、使っている語句に目をとめる。まわってみながら、生徒の書く活動をとめさせずに、目にはいった中の語句から、上すべりしているのであるかどうか、評価する)
「生徒の様子、態度からもわかるが」のところで「先生、わかりません!」と言いたくなる文章である。まじか、わかるのかこれ…。
また、生徒のペンがとまっている場合(つかえている場合)については、箇条書きで次のような判断のポイントが書いてある。
- とまって考えを深めるべき時か。つまり、書き進むための、当然の、むしろ好ましい、とまりであるか。
- 書くことがなくなったのか、何か考え出そうとしているのか。書くことを忘れて、思い出そうとしているのか。
- 心にあることが、ことばにならないか。自分の心にわいているものを、ことばにしようとしているところか。
- ことばを選んでいるか。
- 書いていることが、自分でいやになり、その文章を打ち切りたい気持なのか。
- 作業にあきたのか。
そして、この箇条書きの後には、
これらは生徒のようすからもわかるが、
「わかんねえよ!」と突っ込んでその先を見ると、
それ以上に、ペンのとまっている場所、そのとまりかたに目をとめる。どういうことを書きかけてとまっているか、どういうことばの次がつづかなくてとまっているかによって、上記のどの理由で、とまっているかを見る。
いやあ、大村はまが言葉の真の意味で化け物であることがよくわかった。エスパーだったのか…。冗談はさておき、彼女がこれを全部できているとは思わないけど、それを心がけて、できるだけしようとしてただけでも十分「真の意味で化け物」である。これはやはりどうやっても近づける気がしない。
でも、こうして「見るべきポイント」のようなものは確かにありそうだ。一学期、石川晋さんからも、授業を見るときのポイントを色々と教えてもらったではないか。ポイントを見抜く才能のない僕は、大村はまや石川さんの言うポイントを、ひたすら真似するよりほかなさそうである。
明日からライティング・ワークショップ開始。自分にできる範囲で、だけど、先達に倣いつつ、カンファランスに励みましょう!