文章の「型」は必要とされるときに手渡したい。まず型を教えよ、という意見について。

作文教育に関して、「まず型を教えよ」という立場がある。この主張の背後にあるのは、学校の国語の授業で「書き方を教わらなかった」経験だろう。自由に書きなさいと言われたが、書き方を教えてもらえず、困った。その経験を積み重ねた人は少なくない。だから、書き方をきちんと教えなければ。その「書き方」が「型」だという訳である。

また、外国の作文教育ではこういう型を小学校からしっかり教えるんです、ということも言われる。アメリカではパラグラフ・ライティングを小学生の頃から教えるとか、事実と意見の区別を小学生からやるとかいう、よく聞くアレである。今日は、この型について。


ところでこの「アレ」の話は本当なのだろうか(アメリカの教育は本当に千差万別らしいので、どこまでスタンダードなのだろう)。本当だとして、有効に機能しているのだろうか。アトウェルは著書の中で、「5パラグラフ・エッセイ」は現実の文章にはあまり存在しない「学校特有のジャンルだ」と批判しているし、機能しているのなら、事実と意見の区別を叩き込まれているアメリカ国民が、なぜよりによって「ポスト・トゥルース」のトランプ政権を支持するのだろう。

前提として、「書き方を教えるべき」ことについては、僕ももちろん賛同する。「型」は、「書き方」の一つではあるだろうし、教える価値はある。しかし、僕は「まず型を教えよ」という立場は取らない。それは、あまり効果的ではないと思うからだ。

第一に、「型を身につける」ことは技術習得のための訓練なので、それだけでは生徒には退屈だからである。当人の書きたい意欲や書く必然性がないところで型を教えても、多くの生徒にとってはただの「押し付けられた作業」に過ぎず、退屈や苦痛の原因にしかならない。文章の書き方を教えるはずが、結果的に書くことを嫌いにさせ、遠ざけてしまう(「嫌いでも上手ければいい」という理屈も成り立つが、大抵の人は、嫌いになると上達しない)。

また、真剣に書く気持ちがないところでは、せっかくならった型も定着しない。「将来役に立つから」というだけで生徒が書く気になることは、残念ながらほとんどない(自分を振り返ればわかることである)。これでは、「教えた」というアリバイづくりはできても、その型が定着することは期待薄だ。

こういう点を考えると、「まず型から教える」は必ずしも有効な教え方ではないし、これだと「型」を実際に定着させることはできないのではないかと思う。それに加えて、文章のジャンルに応じて様々な「型」があるので、下手をすると色々な「型」をカバーすることが授業の目的になりかねない恐れもある。

僕は、型を教えること自体は全く否定しない。それに、「まず型を教えよ」という方針を支持する方がこういう問題を無視しているとは思えないので、これは結局作文教育で何を優先し、何から手をつけるか、という問題でもある。

けれども、僕は、型とは「書きたい」という気持ちがあるときに手渡すものではないかと考える。だから、まずは、その気持ち、必然性を生み出す必要がある。そうして、書きたいけれどもうまくいかない生徒に対して、「この型を使うとうまくいくよ」と手渡す。便利な型であればあるほど、そんな風にして教えたい。

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1 個のコメント

  • 賛成です。チャンスを捉えて、その時々に必要とされる要素を支援するというチャンス教育につながりますね。書きたいことが湧き上がってきたとき、書くべき場があるとき(場を与えられたとき)、書かねばならないとき、書こうと思ってもどのような構成(順序)で書けば良いのか効果的なのかわからないとき等々、あすこまさんの言う「必然性があるとき」に型を紹介することが、最適なチャンスなのだろうと思います。
    ただ、やはり時間はかかりますが、さまざまなジャンルの本に触れて、さまざまな文章、文体に接すること、語彙を豊富にすることが、文を書けることにつながるのだろうと思います。