今日はこちらのエントリの続き。引き続き、Writing Voicesから「書き手としての教師」について。
実際、教師自身が文章を書くことのメリットはとても大きい。前述のWriting Voicesでは、教師も文章を書くことで「内側の視点」から書くことについて学べるとして、具体的に次の点を指摘している(chapter 8)。
(1)書くことの複雑なプロセスについて理解できる
・書くプロセスが単線型ではなく、唯一正しい書き方もないことがわかる。
・書く時に文章を読み直すことの重要性がわかる
・書くことは意味を創造することだということがわかる。
(2)書くことの負担の大きさについて理解できる
・書くことには喜びだけでなく不安も大きいことがわかる
・仲間がいたり一緒に書いたりすることで不安が軽減することがわかる
・しかし、文章を書くことの不安は決してゼロにはならないこともわかる
どれもなるほどなあと思う指摘だ。こういう教師の意識の変容の研究も面白いな。
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この本では、他にも次のようなメリットを指摘している。
・実際に文章を書くことの効用について説得力を持って語れる
・自分が生徒に与えている課題について、より深く理解できる
・その結果、「短時間で書け」のような、現実にそぐわない要求をしなくなる
・自分自身のデモンストレーションを通じて教えられる
・生徒と同じ課題について書くことで、生徒がフェアな印象を持つ
僕も3学期の中1の作文の授業では生徒と同じ条件で作文を書いたけど(下記エントリ参照)、教師も一緒に書いたほうが、書かないよりも良いサポートができることは確実だ。書くことのコミュニティを形成する雰囲気作りという観点でも、有益だと思う。
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とまあ、「教師も書き手であること」「生徒と一緒に書くこと」は、作文教育的には良い事尽くめなんだけど、実際にはそれをやっている教師は少ない。当然、自分が書く経験も積んでいないとすれば、どうしてもその授業を積極的にやる気になれないし、その結果、書くことや作文の授業に熟達もしない。しかるに生徒や保護者からは「そうは言っても先生だからうまいんでしょ」と見られる。だからますます逃げ腰になる…という悪循環があるのでは。
作文教育が、一部の熱心な教師達はいるものの、全体としては停滞しているように見えるのは、こういう「書き手としての教師」のあり方に由来する部分も大きい気がする。だとすると、作文教育の改善の第一歩は、教科書の改訂や先進的な作文教育法(多くは名前が新しくても過去のものと同工異曲である)の導入以上に、「教師に文章を書くための暇や機会を与えること」なのかもしれない。これ、教師の成長という観点からも重要な課題ではないだろうか。