怒涛の四月を終えてようやくゴールデンウィーク。来週も授業があるとはいえ、ひといきついた同業の皆さん、お疲れ様でした!僕は年度はじめのあわただしさに加えて、再三の告知のとおり、『君の物語が君らしく 自分をつくるライティング入門』のAmazonでの発売もあって、ドキドキな日々。「我が子が生まれる前よりよっぽど落ち着かないですよね」とはわが妻の指摘です….。そんな四月末、今日は「今年の目標」が決まったよ!というエントリ。
目次
月末の金曜、風越の「スタッフ研修日」
風越では、昨日、受け持ちの56年生の保護者会があり、今日が月末のスタッフ研修日。子どもが登校せず、スタッフだけで集まる日だ。僕はこれに救われた。というのも、4月はただでさえ忙しいのに加えて、4月最終週にある保護者会に「作家の時間」の最初の作品集を間に合わせたいがあまりに、休日勤務もふくめてちょいと無理をしてしまうのだ。多少無理をしても、最初の保護者会で作品集を手渡して「ファンレターをお願いします!」を言えるメリットは本当に大きいので…。
で、そんなふうに駆け抜けた月末に、風越にはスタッフだけで集まれる研修日がある。これは本当にありがたいこと。普通なら、駆け抜けたままの日々が続くのに、この日が月1回あるおかげで、立ち止まれる。ふりかえれる。スタッフどうしで話ができる。学びあえる。少なからぬ負担に協力してくださる保護者の方には感謝の一言しかないが、この素晴らしい仕組みのおかげで風越が成り立っているといっても過言ではない。
例えば今日は、夕方に56年の学年団スタッフで、この一ヶ月どう過ごしたかをいちおうの話題にしながら、たわいもないおしゃべりができた。挑戦していることがハードな職場であるからこそ、そんなふうにおたがいを気づかえる時間的余裕が持てるのがありがたい。そして何より、今年の研修日は、午前中に有志スタッフが「この指とまれ」方式で学びたいことを半年間の連続講座のかたちで企画し、他のスタッフが選択して学ぶ3時間。これが本当によい時間だったなあ。
授業記録を読もう!書こう!
この午前中の研修、僕は「授業・保育の記録を読もう!書こう!」という連続講座を選択した。とっくん(片岡利充さん)が企画した講座で、その前にあった国語の教科会で彼の熱い語りにちょっと胸をうたれて選択を決めたのだ。でも、良い時間だった。今日は、一年でもいちばん気持ちが良いころの夏前の軽井沢の晴天。屋外で寝転がりながら『授業づくりネットワーク』の記事をいくつか読んで、気になったところに線をひいたり、書き込みをしたり。その後、お互いの感じたことを交流しあって、この後やりたいことを決めた。
読んだ原稿で一番印象に残ったのは、石川晋さんの特別寄稿、石川晋「授業記録を読むということ」。そうそう、授業記録って、再現可能性なんてどうでもよくて、自分の心に灯をともすためのもの。僕はもともと「誰かの実践をそのまま再現しよう」という欲望が薄く、他者の授業は憧れたり、心をかきたてらたりしつつも、それをとおして自分を見つめる「鏡」としてそこにある。ナンシー・アトウェルの『イン・ザ・ミドル』も、僕はそんなふうに読んで、翻訳してきたなあと思い起こしながら読んだ。
でも、授業者が書いた授業記録は、どうしたって主観的で、独善的な美しい物語になりがちだ。だからこそ、本書ではストップモーション方式のように、観察者が記録した授業記録も必要だ。そういう具体の提案もありがたかった。
授業を見ること、記録することに挑戦したいな
ところで、非言語情報のキャッチ力が弱い僕は、授業を見ることがそんなにうまくない。その自覚は以前からあって、東京の公立中学校時代の井上太智さんの授業を見に行ったとき、石川晋さんに授業の見方のイロハを教わったこともある。
その傾向は基本的には今も変わらない。だから、今年、もうちょっと授業を見ること、記録することが上手くなればいい。ちょうど今年度、僕は週に1度は何があってもりんちゃん(甲斐利恵子先生)の国語の授業を見ようと心に決めている。せっかくだから、ただ見るだけでなく、授業記録を書くことにもチャレンジしてみたいと思っている。
でも、授業を見ることの何が難しいって、基本的に人は自分の見たいものを見るということだ。これまでも自分は多くのすぐれた国語実践者の授業を見させてもらったが、基本的に「この人の授業は見る価値がある」と信じていくので、どうしたっていいように見てしまうし、授業後のお話も「いい話」を最初から期待してしまうところがある。たとえばいま、下記の甲斐利恵子授業訪問記を見ると、そもそも国語教育のレジェンドを前にする憧れが全面に出ている。僕は最初から「良いもの」を「鑑賞」しに行っているのだ。そういう憧れに自分がひっぱられる良さももちろんあるけれど、どの程度自分がりんちゃんの教室をちゃんと(評価をまじえずに)「見て」いたのかは、今思うとはなはだ心もとない。
今は、少なくともあの当時よりはりんちゃんの授業を冷静に見られるだろう。もちろん尊敬すべき先達には違いないけれども、ただ憧れている状態からは脱しているからだ。だから、今年はあらためてりんちゃんの授業を見たい。見て、記録することに挑戦したいなと思う。
そして、「授業・保育の記録を読もう!書こう!」講座にいる、とっくんをはじめとする同僚の授業も見てみたい。「遠方にいるだれかすごい人の授業を見る」よりも、「同僚の授業を見る」ほうが、本来学ぶことは多いはず。というのも、同僚であれば、その人の授業観や好みといったバックグラウンドの情報とともに、見たことをやりとりしやすいからである。授業は結局は人がつくる。授業単体だけでなく、その授業者の好み・性格・授業観、そういったものと生徒の相互作用で授業はつくられている。そういうバックグラウンドとともに「人として」やりとりすることが、実りある授業見学の姿のはずだ。
今日の研修日は、そんなことを考えた1日だった。去年は、あっきーやKAIさんからPAについて学ぶことを一年のテーマにしたけど、今年は、とっくんから、授業記録を読むことや書くことについて学ぶ一年にしよう。そんな一年の計をたてられた、本当に良い研修日だった。
何かをやってみる/何かをやめてみる
ところで最後にもう一つ、授業記録とは別に、最近自分の中で考えていることも書いておきたい。それは、自分が意図しない変化を自分の授業に起こすには、何をしたら良いのだろう、ということ。最近の自分の関心の中心には、いつも「ありのままでいいよ、と、ありのままではいけないよ、と、そのあいだ」がある。
ただ、今のままのやり方をブラッシュアップさせても、正直この問題が解けそうな気がしない。だから、自分が意図しない変化を自分の授業の中で起こしてみたい、という誘惑にかられているのだ。
変化を起こすには、「何かをやってみる」方法と「何かをやめてみる」方法がある。さて、どっちをとるといいだろうか。「何かをやってみる」方向としては、たとえば教室にプロの書き手をたくさん招いてみる。「何かをやめてみる」方向としては、たとえば自分の生命線のカンファランスをやめてみる。…いずれも、実際には何をやる/やめるかはわからないし、その結果もどうなるかは全くわからないけれど、この一年、何か自分の授業に意図しない変化を起こしたくなっている。これから授業が本格化する4月末、この気持ちはどう僕の今後に影響するのかな。