いじめ被害を確実に減らす方法は「学級」制度の見なおし

岩手の中2生徒がいじめで自殺した事件を受けて何の気なしにつぶやいた次のツイートが、1400以上もRTされている(もっとも、RT先で何を言われてるかまではわからない。当然、賛成ばかりではないはずだ)。


僕が上で書いたことは本心である。しかし、日本の中等教育までのいじめ問題が日本型の「学級」という制度と不可分に結びついているということは、内藤朝雄さんが以前から指摘していること。僕の意見は彼の言っていることの(劣化版)受け売りにすぎない。




僕は上記のうち「いじめの社会理論」を学生時代に読んだきりだけど、その分析は面白く、納得するものだ。ウェブ上で彼の考えのエッセンスが読めるものとしては次のようなリンクがあるので、知らない方はぜひそちらを読んでほしい。

 ▷ いじめ防止に「怖い先生」は必要か? (SYNODOS)
 ▷ 「いじめ学」内藤朝雄氏に聞く、問題の深層と対策  (原宿新聞)

さらに参考文献として、日本型「学級」の成立については次のような良い本もある。いじめについては扱っていないけど、これもとても面白い本なのでお薦め。


さて、いじめが起きるたびに、「いじめゼロ宣言」のような生徒の運動が起きるが、それが長期的に見ていじめを全く防いでいないのは、周知の事実だと思う。生徒の運動は、問題解決のポーズにはなっても、問題解決にはつながらない。それは、「学校の制度の問題」を「生徒の人間関係の問題」「生徒の心の問題」に矮小化してすり替えているだけだからだ。

そもそも人間が集まる集団である以上「いじめ」を根絶することは不可能だ。どこの国にだっていじめはある。その意味では、下記リンク先で内田良さんが言っているように、「いじめゼロ」という目標は問題を隠蔽する方向にしか機能せず、むしろ「いじめ10件(を見つけよう)」のほうがはるかに現実的で、すぐれた目標だ。

 ▷ 「いじめゼロ」「不登校ゼロ」の落とし穴――岩手県矢巾町立中学校の自死事案を手がかりに考える (内田良)

そして、学校組織やそこでの教育のあり方によって、いじめの被害の頻度や程度には差が出てくる。森田洋司「いじめとは何か」によれば、日本のいじめは、件数こそ少ないものの、「特定の子どもに長期間にわたって続き、手口も多様になり、エスカレートしていく」(p137)。そして、「その多くが学級という柵の中で行われている」(p89)。いじめられている側も一見いじめている側と仲良しに見えることも多く、「校庭での暴力」などと比べると、発見が遅れ、潜在化し、深刻化する危険が大きい。

こうした日本型のいじめの特徴に、日本人の集団意識や、日本型の学級があることは間違いないのではないかと思う。


いじめ問題にどんなスタンスをとるのであれ、学業と生活が一体となった特異な集団である「学級」が、いじめ問題に関わっているという認識は、共通認識になってほしい。これほどまでに長時間を一緒に過ごす、濃密で閉塞的な(流動性の低い)人間関係は、諸外国の学校だけでなく、国内の大人社会でもなかなか存在しない。大学や会社にだっていじめはあるだろうが、それが子どもの場合と比べて深刻化しにくいのは、ひとえにその集団から離脱して別の集団を選びやすい流動性の高さによる。もちろん、大人には経済的事情などで仕事を辞めたくても辞められない場合もあるだろうが、それでも子どもが周囲の大人(保護者や教員)を説得して転校させることのほうが、精神的ハードルははるかに高い。

だから、いじめ問題を本当に解決したければ、学級制度を変えるという主張は、当然なされて良い。もちろん、制度をいじれば多方面に影響が出る。日本の教育の「良い部分」もそれによって失われるという声が出るだろうし、実際にそうだろう。

しかし、それでもやるべきだ、と僕は思う。構造上非常にいじめを生み出しやすく、その結果子どもの自殺を誘発しやすいこの制度は、制度として健全ではない。プラスマイナスでマイナスが大きいと僕は判断している。学級制度は、長期的には解体すべき。内藤も執筆に参加した次の本で述べられる「自由な学校」像のほうが、僕には望ましいあり方のように思える。

学校が自由になる日
宮台 真司
雲母書房
2002-10


とはいえ、残念ながら、この考えはおそらく支持されないだろう。先ほど言ったように日本型学級だからできることも確かにあるのだし、それに、いじめを受けていない多くの生徒や元生徒にとって、学級は「良い思い出」の源泉でもあるからだ。

では、将来的にはその方向を目指して少しずつ前進しつつ、一方で現在の学級制度を前提として、何ができるだろうか。基本的には、人間関係の流動性(集団の開放性)を高めつつ、同時に、いじめを個人の人間関係の問題ではなく社会の治安の維持の問題だと捉えることが必要だと考える。

だから、学校としては、できることは、こんなことだろうか。

・クラス単位で参加する行事を減らす(行事ごとにランダムで異学年を含めた混成チームを編成するか、もしくはクラス単位のままなら、行事への参加を完全に生徒の選択制にする)
・固定教室制をやめて移動教室制にする。教室を出る、他のクラスと合同授業をするなどの機会を増やす。
・他者に危害を加えた者への罰のルールを学校全体として明示化する。 


また、教師単位でできることは、

・クラスを盛り上げようとしない。「みんなで心を一つに」とか言わない。
・仲良くすることを強制しない。むしろ、人間関係の好き嫌いや仲の良し悪しは当然あることを前提にし、その上で必要に応じてどう協同関係をビジネスライクに築けるかを試行錯誤させる。
・誰かの性格やふるまいに欠陥があったとしても、それはその誰かに精神的・肉体的な危害を加えて良い理由にならないことを徹底する。
・いじめを個人同士の問題にしない。社会全体の治安を脅かす加害者に、社会全体がどう対処するか、という問題にする。
・他者に危害を加える者については明確なルールに則って罰を与える。
・頻繁に席替えをして、人間関係の流動性を高める


このあたりだと思う。まったく、色々と書いたわりに、現実の問題として僕が目指せそうなことは、最後にあげたことくらいなのだ。そして、実のところそれでさえ手にあまる。学級制度の現状を温存したままでいじめに対処するというのは、実際かなり困難な問題なのだと思う。

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