「挙手発言型の授業」について、野中信行さんが、ブログ「風にふかれて」でとても大切な指摘をしていた。
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野中さんによれば、挙手発言型授業には、次のような問題点がある。
①「はい、はい、はい」と盛んに手を挙げている授業は、冷静に見ると他の子供の意見はそっちのけで、とにかく自分に当ててほしいという一心である。
②課題に対して深く考える。友達の発言をよく聞く。授業では、こちらの子供の姿勢がもっと大切であるはずなのに、こんなことはそっちのけになる。
③「発表すること」だけが良きことだという考えを子供に植え付けていく。
④手を挙げながら考えようとする外向的な子供を大事にし、内向的な子供を引っ込ませていく。
⑤このような挙手発言型の授業を続けていると、結局傍観者を多く作り、全員参加の授業になることはできない。
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どれも大変によくわかる指摘だ。正直、耳が痛い。
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僕の勤務校の新入生(中1)は、基本的に自分に自信があり、元気もいい。だから多くの生徒が挙手して発言しようとする。僕自身、生徒の意見を使って授業をするタイプなので、初めてこの学校の中1を受け持ったときは、とても授業がしやすかった。みんなが手をあげてくれて、我ながら順調に授業できている気がしていたのだ。
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ところが、ある日、きちんと誰が発言しているのか記録してみてびっくりした。「みんな」が授業に参加していたと思っていたのに、クラスの40人のうち、実際に発言していたのは20人にも満たなかった。残りの20人以上は、僕の中で完全に「背景」になっていたのだ。これはけっこうショックだった。
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また、しばらくすると、積極的に挙手発言する生徒の多くが「前の生徒の話を聞かずに、思いつきを言っているだけ」ということもわかってきた。これでは「言いっぱなしあい」で「話しあい」にはならない。話しあいは相手の意見の内容をしっかり聞くことから始まるのに、聞くことの大切さを、挙手発言型授業ではなかなか徹底できない。(今でも全然徹底できてない…)
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野中さんが言っていることは正しい。テンポよくぽんぽん手があがり発言が飛び出す授業って、教師にとって麻薬みたいなものだ。とってもいい授業をしている気になれる。でも、 瞬発力があって聡明な(そしてちょっぴり思慮の浅い)生徒が活躍するその裏で、多数の生徒が学習参加を阻害されている。
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思い出すのは、「哲学対話」の「コミュニティーボール」のことだ。参加者がある哲学的テーマをめぐって対話しあう哲学対話では、コミュニティーボールという小道具が使われる。毛糸などで編んだ小さなボールで、 これを持っている人のみが発言でき、その人が次の発言者を指名できる。発言したい人は、他の人の話し途中でもいいから手をあげて、じっと待つ。
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参加してみるとわかるけど、コミュニティーボールを使う哲学対話の話しあいのテンポは、とってもスロー。参加しててまどろっこしく感じる。でも、このボールを使って意識的に場のテンポを落とすことで、瞬発力のある人、声の大きい人、そして人の話を聞かない人だけがその場の主導権を握らないようになっている。みんなが安心してその場に参加できるように配慮されている。コミュニティーボールは、そういう哲学対話の「知的な安心intellectual safety」の場の象徴である。
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教室にも、コミュニティーボールが必要だ。あるいはコミュニティーボール的な何かが(それは必ずしも小道具ではないのかもしれない)。僕自身があまりできていないことなのだけど、それはたしかに、そう思う。