ここ一週間、勤務校では文化祭準備、文化祭、その後片付けという日々が続いた。僕の勤務校は文化祭にはちょっとばかり力を入れていて、中心学年はそれこそ去年の文化祭が終わった直後から準備を進める。何度か模擬的なイベントも行い、直前には朝練や昼の作業やら、気力体力ギリギリのところまで準備をする。文化祭の最終日は、そういった一年の締めくくりでもあった。
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最終日の最後には、ステージで「ファイナル」という企画がある。ステージ企画の運営メンバー全員が台の上にあがり、互いに感謝の言葉をかけあって、観客とともに歌を歌って一年間を締めくくる。号泣する生徒も出てくる。見ているこちらも、ちょっと胸が熱くなる瞬間だ。
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この「ファイナル」、もしもこの学校の文化祭の文脈を共有しない人が見たら、とても閉鎖的な、内輪だけの、自己満足の盛り上がりに見えるはずだ。これがもしも外部のイベントだったら、舞台裏やその後の打ち上げでやるようなことを、堂々と観客の前でやっている。毎年「ファイナル」を見ている僕としても、これが内輪であること自体は否定しようがない。
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でも僕は、この「ファイナル」が好きだ。一年間情熱を傾けたイベントの終わりを迎えて、肩を組みながら、盛り上がり、泣き出す生徒。それを見上げて、声援を送る後輩。一番後ろのお立ち台の上から応援をして支える、かつて生徒だった卒業生。その輪から少し外れて遠巻きに見ている、保護者や教師といった大人たち。もしかしたら少しの違和を抱きつつも、その場に残って見守ってくれる外部の方々。何かに情熱を傾けてきた生徒たちと、それを支える人たちの内輪な空間。
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学校は内輪なところだ。またそうあるべきなんだと思う。ステージのファイナルを見ると、飛躍を承知で、そういう思いを強くする。若い人たちを一定の期間、社会から隔離して、何かに打ち込める環境をつくる。それが、大人の常識から見てどんなくだらないことであってもいい、何かに夢中になること。運がよければそれを分かち合える仲間を得ること。そしてその経験を、先輩から後輩へとひきついでいくこと。安心してそういう経験を紡いでいくための、内輪な場所としての学校。
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最近、学校の中に企業や社会の論理を積極的に入れていこうという動きがある。企業とのコラボ企画も私立学校を中心に多く行われるようになった。もちろん、そういうイベントが子どもたちの刺激になることは、おおいにあるだろう。自分たちが将来進んで行く世界のことを垣間みるという経験は、人を一気に大人びさせる。それにはその良さがある。
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でも、僕たち学校の大人が一番大事にすべきなのは、学校の中に社会の論理を入れて、社会にとって意味のあることに生徒を順応させ、早く大人にさせることではない。逆に生徒を社会から守るための防壁となり、社会からの要請と折り合いをつけつつも、彼らが安心して「くだらない何か」に打ち込める、「子どものままでいられる」環境を作ることだと思う。
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そういう環境で、何かに夢中になったという経験や、そのなかで培っていく創造性は、長い目で見た時に、きっと社会のためになる。もしもならなくたってちっともかまわない。そういう子ども時代の記憶は、その後の人生を、きっと長い間支えてくれるだろうから。