「一斉授業をきちんとできないと活動型の授業はできない」のか?

力量がある国語の先生たちから、「一斉授業をきちんと出来る人でないと生徒の活動主体の授業もちゃんとはできない」という言葉をしばしば聞くし、つい「そうだよな」と思ってしまうのだけど、本当にそうなのかどうかは、ちょっと慎重な検討が必要だと思う。

理由は2つ。一つ目は、この発言をする人はたいてい「活動主体の授業より先に一斉授業形式を経験した人」であること。誰しも自分の人生のストーリーを肯定したいものなので、自分の経験の順番を無意識に必然性の順番に置き換えている可能性がある。第二に、この言葉は一斉授業の形式に慣れている現場の多数派(いわゆる「授業名人」も含む)の耳に、とても心地よい言葉だから。僕たちは、自分の願望や快感を代弁してくれる言葉には弱いので、一層慎重にならないと。

「一斉授業をきちんと出来る人でないと生徒の活動主体の授業もちゃんとはできない」を言うのであれば、次のことを考えないといけない気がする。

・「きちんと」の定義は何か? (一斉授業のベテランに都合の良い定義がなされてないか) 
・それはどうやって測定するのか? (別に厳密でなくてもいいけど、コンセンサスは必要)
・本当に相関はあるのか? 
・このセリフは、「活動主体の授業をちゃんとできる人でないと一斉授業もちゃんとはできない」と言い換えても同じことなのか? 違うのか?
・ 順序として、「一斉授業」が授業技術のベースにあり、その延長上に生徒の活動主体の授業があるのか? (その時、両方の授業の「良さ」を図る基準は統一されているのか?)

 何もまとまってないけど、個人的なメモとして。

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