得意なこと、苦手なこと、これからのこと…自分の授業スタイルについて振り返ってみた。

今年一緒に5・6年のラーニング・グループスタッフをやっているあっきー(木村彰宏さん)は、コーチングの専門家。国語のサポート役として授業に入ってもらうことも多く、僕の授業を今年一番たくさん見ている人でもある。そのあっきーに、自分の授業スタイルをどう思うか改めて聞いてみたら、自分の得意や不得意、できていることやできていないことが見えて面白かった。もちろん、あっきーもコーチとして本腰を入れて観察して言ったわけではないだろうし、ここに書いた言葉もあっきーの言ったことそのままではなく、自分の解釈で書き直している。だから、これから書くことは全部自分の責任で書くことなのだけど、それでもあっきーの言葉に「なるほどな」「さすがだな」と思うことが多かった。今後の自分の指針になると思うので、ここに書いておきたい。

写真は、2月の最初の土日で勉強仲間のトミーと訪れた北八ヶ岳の「星とランプの宿」高見石小屋。薄暗いランプの灯りの下で、いつまでも昔の山岳雑誌や山岳本を読んでいたい、そんな素敵な宿でした。

目次

良くも悪くも「支配権を持つ」タイプの教員

あっきーの言う僕の授業の特徴は、「良くも悪くも、判断基準はあすこまが握っている」ということだった。「作家の時間」(ライティング・ワークショップ)や「読書家の時間」(リーディング・ワークショップ)のような実践をしていると、通常の一斉授業よりもよほど子どもに選択権があり、実際自由にふるまえる時間も多いのだが、しかしその「自由にふるまえる」時間も、結局は僕の意図の上に成り立っている。確かに、僕は国語に関しては「場の支配権」を手放さない教員だ。子どもたちの国語の力を最大限伸ばしたいという願いのもとに、時間や場を設計し、資料を用意し、カンファランスでもはっきりした意図を持って子どもたちと関わる。子どもの不規則発言にも、付き合う時と無視して付き合わない時の基準がはっきりしている。

ちょうど先日、ある方が僕の授業を見て「あすこま先生がなさっていること、1つ1つが子どもたちの学習環境となって、それが機能していることに大変感銘を受けました」と書いてくれた。まあ、これは多分お世辞も込みで書いてくださったのだろうけど、方向性としては僕の目指していることをズバリ指摘している。僕は、意図を持ってしっかり授業を設計し、場の支配権を手放さず、みんなの力をつけようとするタイプ。一見物言いがおだやかで、声を荒立てて怒ったりはしないので、だいぶ印象が中和されている面はあるにせよ、「物腰はやわらかだけど、きっちり詰めて子どもを逃さない」タイプである。

これは決して悪い意味だけで書いているのではない。優れた先達にも僕と似たタイプはいる。尊敬する同僚だと、おそらくりんちゃん(甲斐利恵子さん)は根本的には僕と共通点がある。ふだんからおだやかでニコニコして冗談好きなので一見気付きにくいのだが、彼女はことによると僕以上に場をホールドするタイプかもしれない、と思う時すらある。子どもの国語の力をつけるために準備に手を抜かず、子どもにも手を抜かせない。だからこそ子どもたちの力がつく、そんなタイプの人に見える。

場に乗れる子には「良い教師」でいられる

さて、そんな「きっちり」タイプの僕と相性がいいのが、「僕の用意した場に乗ってくる/乗れる」タイプの子だ。僕はもともと、自分の授業がどうしても優等生向けになってしまうことにコンプレックスに近い感情があったのだが、どうもその傾向の原因は、前任校が高偏差値校の筑駒だったというだけでないらしい。きっちりと場をホールドして設計する僕の授業スタイルにも要因があるのだろう。つまり僕は、「僕の設計した場に乗ってくれる子には、ちゃんと面白くて力のつく授業にしますよ」というタイプなのだ。実際、「乗ってくれる子」に対しては、一人ひとり丁寧に見とってカンファランスの記録をつけ、それぞれの子にチャレンジがある課題を設計し、それを評価し、子ども同士の関係性作りも授業の中で丁寧に行い…と、かなり労力をかけて頑張っている。図々しい自己評価だが、結果として力がついている子も多いと思う。

それに加えて、小学5・6年生を初めて持った去年は「自分は中学生以上向けだな」と思うことも度々あったが、2年目も終わりに近づいた今は、だいぶ小学校高学年にチューニングがあってきた実感もある。それには、下記エントリにも書いた、「学級崩壊は多くの子が待たされることから始まる」「時間通りに来た子を待たせない」「場を冷やす声がけを全体にしない」「聞きなさいを言わないで聞いてもらう」「ちゃんとを楽しくに変える」などの、ちょんせいこさんのアドバイスも大きい。まだまだできていないこともたくさんあるけど、これを心がけるだけでも授業はだいぶ変わる。実際、僕の筑駒時代の授業を見学した人が風越での僕の授業や子どもへの関わりを見ると、その変化に驚く人も少なくない。

授業前の漢字クイズ、はじめました。「楽しく」と「ちゃんと」の両立を目指そう。

2022.05.21

そうやってチューニングがある程度うまくいけば、僕は多くの子にとっては「良い国語の教師」であれる。国語を教えるための知識と熱意を持ち、おだやかな雰囲気で場をホールドして、そこで一人ひとりの言葉の力を伸ばすことに努力している、という点において。これがあっきーの言ってくれた、僕の良いところだ。

用意された場に乗れない子たちはしんどい

一方で、相手にとって僕がしんどい存在になってしまうのが、「そもそも場に乗るのが難しい」子たちである。僕の作る場に乗れない子、僕の判断基準を受け入れられない子….僕の授業は、そういう子をも包摂するインクルーシブな授業には、正直なところなっていない。

国語が根本的に嫌いだ、嫌いなことはやりたくない、そもそも他人の敷いたレールにうまく乗れない、言われたことができない、どうしても集中できない…色々な理由があるけど、僕の授業に乗れない子も、割合は少数だが確実にいる。僕はそういう子にも真っ直ぐに向かってその子を国語好きにしよう、国語の力を伸ばそうとするので、それがその子たちにはどうにもしんどいのだ。しんどいから、逃げたくなってくる。

僕のその子たちへのカンファランスは、「魚に対して木に登れるようにあれこれ頑張っている」ようにも見えるという。そもそも木に登れない、あるいは登りたくない魚たちが「こんな梯子を使ってみたらどうだろう」「こうすれば登れるかも」といちいち提案されていたら、なるほど、それはうんざりするに違いない(笑)

おそらく根本的には、入念に設計して子どもたちの国語の力がつくようにきっちり場を整える僕のアプローチそのものと、「きっちり」した場に乗れないそういう子たちの相性が悪いのである。とはいえ、僕も自分の性格の根本は変えられないので、授業の全体の場の整え方は急には変えられない。さて、どうするかということになる。

では、どうすればいい? これからの方向性

自分がコントロールできない場を作る

それには、いくつかの方向性がある。あっきーが提案してくれて面白いなと思ったのは、「自分がコントロールしようとしてもコントロールできない場を意図的に作る」ということだった。子どもの力を伸ばそうという意図がはりめぐらされた僕の授業には、良くも悪くも「余白」がない(正確に言うと、僕が設計の上で意図的に入れた「余白」しかない)。苦しい子にはそれが苦しい。

だから、どう考えても対処できない人数を一人で見切る、のような「無理ゲー」的状況の中に自分を置くことで、意図せず余白を生んでしまう状況を作ってしまうというのだ。なるほど、そうすれば「意図して設計しきる」ことができなくなり、それができない地平から見えてくるものがあるかもしれない。ただし、このアイディアに欠陥があるとしたら、僕はかつて160人超の人数を相手に一度にライティング・ワークショップをやっていたハードワーカーなので、おそらく寝食を削ってでも「意図して設計する」ことを容易には手放さないだろうということだ(笑) なまじっかできてしまうだけに、それを手放す決断ができるかどうか。

集団の力を使う

第二のアイディアはもっと穏当で、多くの子には機能している全体の場づくりの方針は変えずに、そこに乗れない子たちには全く別のアプローチをとる、という方法だ。例えば、僕の場に乗れないA君やB君には、僕が直接アプローチをするのではなく、彼らと関われるC君やD君にやってもらう。これは、筑駒時代に僕の授業を見にきてくれた石川晋さんが言っていた、集団の力を使うアプローチと言える。

リーディング・ワークショップ実施中。渡邉久暢さん、石川晋さんに授業を見てもらう

2018.05.17

このアプローチを取るには、子ども同士が学び合うことの価値を本当に感じている必要がある。そのためには、国語だけでなく、算数でもテーマでも他の授業でも、学年の最初からずっと集団作りにアプローチし続ける必要があるだろう。

「国語の力をつける」を手放す

第三のアイディアはもうちょっと「学級担任」的だ。いったん国語の力をつけることを諦める。自分がその子たちをなんとかしようなんて考えない。僕にとっては国語の授業が主戦場でも、その子にとってはそうではない。だとしたら、その子の1日トータルの中でその子を見る。国語なんかできていなくてもいいじゃないか。代わりに体育で頑張って、そこで言葉を使う場面があれば、それが国語の力になるかもしれない(し、ならないかもしれない)。とにかくその子のトータルの生活が充実することを願って、国語はどうでもいいというスタンスだ。とはいえ、僕は根が「教科担任」なので、理屈はわかっても、正直なかなかこうは思い切れない。なんと言っても、もともとは教育よりも文学そのものに興味がある人間なのである。

ただ、自分が「国語以外の場」に身を置いて、国語以外でその子たちが頑張っている姿を見ることはとても大事だと感じている。面白いことに、あっきーも、「そういう場(国語以外の場)にいる時のあすこまは、圧倒的に個人を見られるし、個人のチャレンジバイチョイスを尊重できる」とも言ってくれている。ただ、それが国語になるとそうはいかないのだそうだ。おそらく僕は、こと国語になると、優先順位が子どもたちの国語の力をつけることになって、そのレールに乗れない個を尊重する度合いが低くなってしまうのだ。これも、やはり以前に石川晋さんが僕について「教えたいことがあるのが課題」と言ったことと重なってくる。

教えたいことがあるのが課題。久しぶりに石川晋さんに授業を見てもらう。

2022.09.17

一方で、僕は国語以外の場とか、そこでどんな力をつけるかと言うことには、正直あまり関心がない。でも、そのおかげで、そこに乗れない子への許容度も高くなる。結果的に、国語以外の場での子どもへの関わりが、国語の授業での関わりと異なる性質を帯びて、それが思わぬ効果を上げることもあるのかもしれない。

支配権を持たない場に自分の身を置くことの意味

この「自分が支配権を持たない場(国語の授業以外の場)に自分の身を置くこと」は、アプローチで言えば第1のアイディア(無理ゲーな状況に身を置く)ことと共通している。「子どもの国語の力をつける」責任感からいったん自分の身を解放したときに、自分の子どもへの関わりがどう変わるかをモニタリングする。それは、自分の国語の授業でのふるまいを考えるときにも、良いヒントになる。

同時に、自分が支配権を手放した時のふるまいを子どもたちに見てもらうことは、国語の授業における僕と子どもたちの関係に小さな風穴を開けて、子どもに解放感をもたらすはずだ。国語の授業だけで接していたら、僕と彼らのヒエラルキーが崩れることはなかなかない。だから、僕と彼らの関係性を双方向性のある風通しの良いものにするには、国語以外の接点こそが重要なのだ。巡り巡ってそれが国語の授業の場に生きてくる。今年はスポーツ(体育)の授業のT2として参加して得ることが多かったのだけど、来年度もそれはやっていきたいと思う。

自分と異なるタイプの同僚に学ぶ

もう一つ、今後の方策があるとしたら、同僚の場づくりをよく見てみる、ということだろう。風越で場づくりの達人といえば、まずKAIさん(甲斐崎博史さん)がいる。ゴリさん(岩瀬直樹さん)もそうだろう。残念ながらお二人とも副校長や校長になっているのでなかなかその機会は多くないが、あの人たちの場作りの力量を、今の関心でもう少し見てみたいなと思う。

KAIさんやゴリさんと違う意味で興味深い同僚が、たいち(井上太智さん)だ。彼は、風越で僕やりんちゃんのような「力をつける」とは違うタイプの場づくりをする。根っこではもちろん考えているのだろうけど、表面ではそれを見せず、きっちり計画されている感じがしない。こう書くと失礼かもしれないが、おそらくは彼自身、僕とキャラクターが違っていて、コツコツきっちり計画的にやって成果を出すのが、あまり好きではなさそう。

でも、そういう自身のキャラクターを、うまく授業の場に反映しているのが彼のすごいところだ。彼がつくる場は(子どもの場でも大人の場でも)常にリラックスしている。「きっちり課題を洗い出して改善する」「一つ一つのタスクを丁寧に遂行する」タイプの僕では作れない雰囲気が、彼の作る場にはある。結果として、僕の授業ではうまく乗れないタイプの子たちが、彼のいる理科室ではいきいきと活動している場面も何度も目にしている。もちろん僕とたいちの個性の違いがあるから、僕が自分の個性を無理につぶすことはないのだけど、彼のような同僚の場づくりにも参考になることはありそう。

とまあ、あっきーとのやりとりをきっかけに、今の自分の場づくりの傾向について、その強みと弱みについて、今後にとりうる方向性について、いくつか考えてみた。僕はしっかり場をコントロールするからこそ一定以上の水準の授業を多くの子に提供できているが、それだからこそ苦しい子も生んでしまっている。それが実情だ。ではどうすればいいのか。すぐには答えは出ないだろうけど、実践を通して継続して考えていこう。

このエントリの続き

自分の授業づくりの傾向は、どんな欲求からできているのか?

2023.02.15

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