小説で単元学習を組み立ててみた雑感(二学期後半の授業から)

二学期の試験前の授業が終わった。僕の二学期後半の授業は、甲斐先生の影響もあるのだろう、いわゆる「単元学習」の枠組みで授業を作ってみた。今日は備忘録として、その簡単なメモを。

中2の「走れメロス」は去年のバージョンアップ版

僕は去年に引き続き中2を持っていて、今年も太宰治「走れメロス」を扱った。基本は、去年のこの授業の流れを踏襲したものである。去年は、授業時数の都合で「3時間でやらないと。どうする?」と急遽組み立てた授業だったのだけど、今年は積極的にコピーしたわけ。

「走れメロス」、なぜ走っているように読めるのか?

2016.10.28
今回の授業が去年よりバージョンアップしたのは、「走れメロス」を読んで「どんな表現の工夫をすると速く走っているように読めるのか?」を分析したら、それを活かして「走れ〇〇」を書くところまで進めたところ。最後は、完成した「走れ〇〇」を全員で読み合って優秀作品を選抜するところまで、全5時間。

この流れは、一応、「分析→概念の獲得→活用による概念の習得」を目指している。

  1. 「走れメロス」から、速く走っているように感じる工夫を見つけ、
  2. その工夫に「見出し」をつける活動を通じて分類・ラベリングを行い、
  3. そこでラベリングした技術を使って、自分でも書くことを通じて定着する

という感じだ。やってみて「意外に馬鹿にできないな」と思ったのは、使われている技に生徒が名前をつける「ラベリング」のところ。たわいもないことだし、実は当初は考えてなくて、やっているクラスとそうじゃないクラスがあったのだけど、やったほうが知識の定着度が高まる気がする。

アトウェルのライティング・ワークショップで、「一粒の小石の法則」「それで?の法則」のように、書き手の技を「法則」化していくのと同じで、自分が見つけた技をラベリングを通じて抽象化することで、別の場面でも活用しやすくなる面があるのだと思う。これは自分にとっては大事な発見だった。

また、こういう風にすれば、ライティング・ワークショップの「ミニ・レッスン」の感覚で教科書を使えるんだな、という手応えも得られた。あまり作品に深入りせずに、目的を絞って教材を使うやり方である。

高2は「自己物語」について考える単元

高2は、文化祭を終えて11月の授業で「山月記」を扱った。こちらは全7回。こちらも、今回は「自己物語について考える」というテーマ単元にして、李徴の自己物語として山月記を読む方向に絞った授業展開。「山月記」と一緒に使った教材は、次の二つの本である。

余談だけど、単元びらきの回には『イン・ザ・ミドル』の訳者前書きも、僕の自己物語の例として使った。日本広しと言えども、「山月記」の授業で『イン・ザ・ミドル』を使ったのは僕だけじゃないかと思う(笑)

この2冊、どちらも心理療法についての本なのだけど、李徴の自己物語を読む上で有益な視点を与えてくれる。『物語としてのケア』は筑摩の精選現代文Bに一部が「物語としての自己」というタイトルで抜粋されてて、悪くない箇所を抜き出しているので(ただし、一部に省略あり)、そのまま使っても良いと思う(僕はそうした)。『自己への物語論的接近』はじっくり読む暇がなく参考資料として紹介した程度だったのだけど、「自己物語は構造的に必ず内部に「語り得ないもの」を孕んでおり、語り手はそれを隠蔽しようとする」という指摘が面白くて、生徒の反応は良かったと思う。この2冊以外に僕が読んだのは、次の2冊くらいである。

「単元」として文学教材を扱うことについて

今回、意識的に「単元」として「走れメロス」と「山月記」を扱ってみて、「なるほど、文学教材を目的を絞って扱うとはこういうことなのか」と少しわかった気がした。良くも悪くも、「素材」として文学を扱う。「走れメロス」にせよ、「山月記」にせよ、目的を絞って、それに沿うように扱うのだ。

例えば「山月記」であれば、今回のように李徴の自己物語としての側面に注目する以外にも、色々な切り口がある。「漢文名作選4」に収められた人虎伝と比較して、元々の伝奇小説と「山月記」の面白さの違いや、中島敦の意図について考えることもできる。「文字禍」「木乃伊」「狐憑」といった『古譚』の一作品として「山月記」を読むこともできるし、中島敦の伝記的情報を元に読み解くこともできる。「山月記」がなぜ国民教材として教科書に載り続けているのかという視点で語ることもできる。実際に、数年前には、こうした様々な観点から山月記を生徒にグループで分析してもらって、その後に全員が山月記に関するレポートを書く授業をやったこともある。

今回はその辺のことをすっぱり諦め、自己物語について考える素材として山月記を扱うことにした。自己物語は、生きる上で誰もが避けられないものだ。まして、物語ることで自己を構築しつつある若い世代にとっては大事なテーマだろうと思ったので、こういうフォーカスの仕方も悪くなかったかなと思う。授業としての改善点はあるにせよ、大まかな単元構成は悪くなかったし、二つの評論を山月記に関連づけることで生まれる面白さも確かにあった。

一方で、「山月記」という作品の可能性を今回の授業でどこまで引き出せたかと言われると、いささか心もとない。むしろ、「山月記」を自己物語について考える「道具」として限定的に使ってしまったことに対する、割り切れなさも感じる。最後の授業で人虎伝を配布してちょっと言及したけど、文学にどっぷり浸かった授業ではなかったなあ。これでいいんだろうか、許してね、中島敦。

手応えと、割り切れなさと。どちらもが残った二学期の授業。次にこういう教材を扱う時にはどんな授業の組み立てになるのかな。その時が来たらじっくりと考えたい。その時のためのメモとして、今回の記録を残しておく。

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