感銘を受けました…。甲斐利恵子先生の「少しだけ戦争と向き合う 詩を詠むことで」の発表会

毎週火曜日は甲斐先生の授業の見学。2時間目の中学3年生は「少しだけ戦争と向き合う 詩を詠むことで」という単元の発表会だった。教科書教材の石垣りん「挨拶」に着想を得て皆が戦争についての詩を書き、それを詩集にしてまとめ、発表するという単元である(下は甲斐先生の著書)。

この発表会に感銘を受けた。仕組みとしては、(1)作者が自作の詩を朗読する、(2)3〜4人の生徒がその詩にコメントをする(甲斐先生がその言葉をICレコーダーで記録する)、(3)甲斐先生もコメントをする、を繰り返す単純なもの。この形式だけなら、僕にもすぐに真似できる。でも、その中身は全然真似できない。

目次

生徒たちのコメントが素晴らしい

何と言っても、生徒たちの作者へのコメントが素晴らしい。この詩の良さがどこにあるのかを色々な視点から言葉にして、大人の僕でも「なるほど、そういう風にこの詩の良さを引き出すのか」と教えられるコメントが多々あった。学力的に厳しい生徒もいるのだが、彼らなりに、ただの「良かったです」の表明を超えて、なぜ良いのか、詩のどんな表現がその良さを生み出すのかを言葉にしようとしていた。

全体として、顔の見える作者への温かな関わり意識に裏打ちされたコメントばかりで、僕のように「共有しない権利」を標榜して、匿名で(ペンネームで)共有している授業では、絶対に到達し得ない雰囲気が教室にあった。

相互批評の視点を育てる

この相互コメントは、甲斐先生がこだわって育てているポイントの一つである。甲斐先生は、作品を共有する時に必ずこのような相互批評をさせ、それをICレコーダーで記録する。帰りの電車などでこのレコーダーを聞いて、生徒たちに批評の言葉が育っているかどうかを確認するのだそうだ。こうやって、文章を読む批評的な眼を育て、言葉を鍛えていく。しかもそれは、顔の見える書き手に向けられた温かいもの。

このコメントについて、授業後に、甲斐先生は次のように語っていらした。

コメントする人が、「僕えらいでしょ」と思ってしまうようなコメントはさせない。コメントは、自分にスポットライトを当てるものではない。

プロセスについて語る甲斐先生のコメント

生徒たちのコメントが終わると、それに甲斐先生が一言つけ加える。これがまた素晴らしい。時には、生徒のコメントにコメントを寄せる。このコメントの指摘はこういうところが素晴らしいねとか、補足説明をしたりとか。作者の詩にコメントを寄せる時もある。誰々さんの詩は、こういう点が素晴らしいですねと作品の長所に言及することもあるが、特徴的なのは、「誰々さんの、類語辞書を引いて◯◯という言葉を見つけた時の、これだ!という表情、覚えてます」のように、書くプロセスを共有することである。

この、書くプロセスについてのコメントが、実際にカンファランスを通じて一人一人の執筆過程を見つめている甲斐先生の強みだと思う。授業後には、

作る過程で一緒にいて、どんなことに悩み、書いてきたのかを知っていると、その作品について語れる。

相手の苦労を知って、相手が触れて欲しいことに触れる。

とおっしゃっていたし、作品の長所を語ることについても、次のように語られていた。

褒めるのではない。子供達は、ありきたりの言葉で褒められた時にはとても敏感。あなたは素晴らしいということを、素晴らしいという言葉を使わずに伝える。

こうした甲斐先生の言葉から思い出すのは、「生徒の書いたものならなんでも面白がれる自信がある」という石川晋さんの言葉だ。ああ、これこれ。甲斐先生がされているって、こういうこと。

「表現を評価されること」に対する生徒の不安な気持ち。

2017.01.19

「義憤する」。言葉を使い始める生徒たち

こういう温かな空間の中で、生徒の言葉の力がしっかりと育っている。先生が教えた批評の言葉を使って生徒が作品について語り、その詩の作品にも、生徒たちが学び、つかまえた言葉が使われている。教わった言葉を、あるいは自分で辞書で見つけた言葉を、生徒が実際の詩の中で使ってみる。見学者の僕はその瞬間に立ち会える。ちょっとぞくっとする体験である。

例えばある生徒が「義憤する」という言葉を詩の中で使っているのを見つける。言い方としてはたぶん正しくない(義憤を覚えるとか、義憤を抱く、とかだろう)。でも、この子は辞書を調べて、自分の感情に一番ピッタリくる「義憤」という言葉を、おそらく初めて使ってみたのだ。その表れが、義憤する、という、ちょっとつまづいた言葉遣い。

僕はこの言葉を詩の中に見つけた時、「ああ、これは僕なら生徒に言って直しちゃうかもな、でも甲斐先生は訂正されないでそのままにしたのだろうなあ」と思った。後で聞くと、実は甲斐先生も訂正するかどうか、相当悩まれたそうだ。振り返って、

迷いました。もう卒業までの間に義憤という言葉をこの子が使って私が訂正する機会はないだろうし…でも、この子はそんなに狭い学びの世界に生きているわけでもない。あとはみなさん、◯◯をよろしく!って感じです。

と、明るく笑っておられた。全力を尽くしつつも、「でも、自分だけがこの子たちの師ではない。この子たちにはまだ先がある」と見通す姿勢も、「自分だけが」に陥ってなくて素敵だなと思う。

言葉の力を伸ばそうとする生徒たち

温かい雰囲気を作るだけではない。言葉の力が鍛えられるだけではない。温かい受容的な雰囲気の中でこそ、初めて言葉の力は鍛えられる。甲斐先生の授業を見ていると、そのように思う。

授業が終わると、数名の生徒が甲斐先生のもとに駆け寄る。決して、特定のタイプの生徒だけではない。優秀な生徒も、学力的に厳しい子も、甲斐先生のところに言って談笑したり、肩を揉んだりする。こういう家庭的な雰囲気の中で、甲斐先生は厳しく言葉の力を鍛えている。

授業後、生徒たちの今日の学習記録を見させていただいた。学習を通じて批評の力がついていることを実感するもの、甲斐先生のコメントに「これが私の言いたかったことだ」と気づいて感謝するもの、そして、自分に批評の力が足りないことを自覚して「先生、もう一度批評の仕方を教えてください、お願いです!」と訴えるもの…多くのノートに、この子たちが自分で言葉をつかみ取ろうとする雰囲気が満ち満ちていて、驚く。

こんな風に、言葉の力を自分で伸ばそうとする生徒たちの姿を目の当たりにできたことは、本当に幸運だ。本当に良いものを見させてもらいました。こういう子供達を育てるには、3年間の、途方もない日々の積み重ねがあるのだ。でも、3年でその成果が見えてくる。自分に今すぐにできるとは思わないけど、少しでも自分のものにしたいなあ…。

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