ふだん「俺はな…」と語る屈強な男性が、恋人の前でだけ「僕ちゃんねえ、わかんないでしゅー」などと語るとしよう。何かの拍子にその現場を目撃してしまったら、僕たちは、強烈な笑いを我慢できないはずだ。日本語の「俺」「僕」という言葉は、ただの一人称ではない。そう自称する話者のキャラクターについて特定のイメージを付与する言葉であり、「俺」と名乗る男性が「僕ちゃん」などと自称するのは、「キャラが合わない」のである。
この「キャラクタ」、「僕」「俺」のような一人称の他にも、日本語の様々な場面で見られる。例えば「行ったよ」「行ったわ」「行ったね」「行ったぞ」のような終助詞にも、「悪いことは言わん、帰りなされ」のような動詞の否定形にも見られる。そして、この「キャラクタ」について分析した本が、この定延利之「日本語社会のぞきキャラくり」というわけ。
役割語を拡張した概念
ここまでの話で、これって、特定の言い方が「年齢」や「性別」や「国籍」を示す「役割語」の話では?と思われた方は察しが早い。この「キャラクタ」、金水敏さんらの本で有名な「役割語」の拡張概念である。
どう拡張しているのかは本書を読んでほしい。ただ、僕がずっと前に『役割語の謎』を読んだ時には、役割語というと「漫画や小説などに特有の、現実では使われない「お嬢様言葉」「博士言葉」「異人言葉」」のようなイメージを持っていたのだが、こちらの本の「キャラクタ」は、現実の日本語社会のかなり広範に適用できる概念である。「いったん、あれもこれも役割語と考えてみよう」という提案といってもいい。
例えば役割語は、「そうじゃ、わしが博士じゃ」のように、その発話の言葉遣いが、発話者の特定のキャラクタ属性を示唆することを意味する(こういう話し方をする人物は、年配の男性博士である)。しかし、「キャラクタ」という概念は、発話だけに限定しない。例えば、「その男はニタリとほくそ笑んだ」という表現の「ニタリ」「ほくそ笑む」という動作表現は、発話ではないけれど、やはりその動作主のキャラクタを表している。「ニタリ」と「ほくそ笑む」のは悪役に決まっている。正義の味方はそんなことはしないのだ。
こんな風に、役割語の発想を、動作や表情にまで適用したのが「キャラクタ」という発想だ。そして、筆者の分類によると、このキャラクタは「品」「格」「性」「年」という観点から分類できる。
直接引用におけるキャラクタの一貫性
なかでも、僕が一番面白かったのは、あるキャラクタが、自分とは「品」が異なるキャラクタの発言を直接引用する場合に起きる現象だ。上品な令嬢が下品な男に頼み事をした場合、下品な男の方は、
げっへへ、そういうわけでよう、お嬢様はよう、「あなたにお願いしますわ」っておっしゃったわけよ。
と、自分より品が上の者の発言を直接引用してもおかしくはない。しかし、令嬢は逆に、
その方、「げっへへ、もちろん、引き受けやすぜ」っておっしゃいましたわ。
とは直接引用できないのである。普通は、
その方、笑って引き受けてくださいましたわ。
のように間接引用で事態を説明することになる。つまり、下品なキャラクタは上品なキャラクタの言葉を直接引用できるが、その逆はできないのだ。「キャラクタ」には、こういう不思議な現象がある。
とても面白い、身の回りの日本語現象
こんな現象を始め、僕たちの身の回りの日本語が予想以上に「キャラクタ」概念で説明できることが、とても面白い。筆者がいうように、こうした「キャラクタ」は日本語学習者にはとても習得しづらいはずで、こうした研究の進展は言語学習の観点からも大いに意義がある。しかし、それ以上に、母語話者の僕たちにとっても、「見えないルール」の存在を意識させて、とても面白い。次の本を読んだ時も思ったけど、こういう「身の回りの日本語現象を探究する」面白さを、生徒と少しでも共有できたらいいんだろうなあ。