「ドアを閉めて書け。ドアを開けて書き直せ」。スティーヴン・キングの著書「書くことについて」に、こんな言葉が出てくる。デビュー前の若いキングに書くことのコツを教えた、ジョン・グールドの言葉である。
書くことと孤独の関係
書くことに孤独は必要なのだろうか。僕は授業では「相談しながら書いてもいいよ」と言ってしまうタイプ。実際に、少数ではあるがおしゃべりしながら書いている生徒もいる。雑談も混じってしまうが、その会話から生まれるものもある。それでいい。そう思っていた。
しかし、アトウェルは書く間の会話を許さない。静寂を保つためにカンファランスもささやき声で行い、生徒同士で相談したいときは「この生徒と、この目的で相談したい」と特定される時でないと相談を認めない。基本的に書くことは一人で行うもの。アトウェルはそう考えている。彼女のワークショップは「和気藹々」というよりも、「黙々と各自の作業をする」、まさに仕事場である。
書くことと孤独の関係
9月から授業を見学させていただいている港区立赤坂中学校の甲斐利恵子先生も、アトウェルの言葉を支持する。甲斐先生とアトウェルの間に共通点が多くうかがえることは下記エントリで書いたが、「書くときは一人でないといけない」と考えているのもその一つだ。
静かに、本当に自分の中に入って…という経験がないのに相談しても、人に教えてもらった感覚が残るだけで、自分の力にならない。
他者と相談して知見を得ることはあるが、自分の機が熟している時でないと意味がない。
一人で悩んで、葛藤している時間がとても大事。一人で大変な状況に入らないと、本当に言葉を探そうとしない。
どれも会話の中での言葉なので、一字一句同じわけではない。ただ、書くことには孤独が必要である、と考えていらっしゃることは間違いない。また、気軽に「生徒同士で相談し合う」「助言し合う」というけれど、それはとても難しいことなのだ、ということも強調しておられた。本当に相手に寄り添って、相手の立場に立って考えないと、助言というものはできないのだから、と。それはとても難しいことで、その力を鍛えるだけの時間はありません、とも。
交流をすべき時、孤独になるべき時
実は、僕のライティング・ワークショップでも、アイデア出しの段階と下書きを読み合う段階では共同作業が発生するけど、他の書く時間は黙々とした個人作業が中心になる。それをなんとなく物足りないと思うのか、見学の方の中には「生徒同士での交流はないんですか」という疑問を口にされる方もいる。それに対して「自発的な交流はもっと起きて欲しいんですけど、交流を強制する気にはなれないので…」と口を濁してきた。
ただ、「ドアを閉めて書け」という言葉や、アトウェルや甲斐利恵子先生といった先人の姿勢を見ると、そもそも「交流して欲しい」と思うことを見直す必要があるのかもしれない。
書くことにおいては、生徒同士の交流を推奨する時期と、そうでない時期があるのかもしれない。アイデアを共有したり、いったん書いた下書きを読んでもらう段階では、他者との交流はとても効果的。でも、自分で考えて書かないといけない時には、ドアを閉めて、一人の世界に閉じこもった方が良いのかもしれない。
この件は、まだ自分ではすっきりとは解決していない。ただ、(とりわけアクティブ・ラーニングなどと喧伝される時代には)僕たちはつい生徒同士の交流や活発な意見交換を良いものと勘違いしがちだ。ドアを閉めて書け。この言葉、折に触れて、反芻しておこうと思う。
いつも読ませてもらっています。ありがとうございます。
作文の時間で、執筆途中で交流する目的はきっと様々あって、前回の私の生徒の場合「互いに励まし合う」でした。長い文を書くことに不慣れだったり苦手意識がある生徒が多い場合、途中経過を読みあって「あ、こういう書き方参考になる」だけじゃなく「みんな頑張って書いてるんだ」と知ったり「面白そうだから完成したらまた読ませて」みたいに言われたりして、「待ってくれる読者がいるから最後まで頑張ろう」というモチベーション向上を狙いました。書かせたい文章の長さや内容にもよると思いますが、ずっと書いているのも単調で、飽きてしまう生徒もいたからです。執筆中は基本個人の作業で、私が回りますが、やはり全員に行き届いた指導ができないのが反省です。自分で推敲できるようになるのが目標なのですが、なかなか…。いつ、どのタイミングで交流するかは、生徒の実態を見て、その都度指導者が決めればいいと考えます。
ありがとうございます。なるほど、たしかにモチベーションを高めたり、励ましたりする効果がありそうですね。あまり教条的に考えずに、生徒の状態を見ながら色々と試すことが必要ですね。ありがとうございました!