先日、ある人と「作家の時間で、子どもが残虐な殺人などの話題で物語を書いていたらどうする?」という話になった。そういえばそういう話題をこのブログで書いたことがなかったので、自分用にメモしておきたい。
人によって程度の差はあれ、作家の時間は「好きなジャンルで、好きなことを」書くのが基本だが、きわどい話題をどう扱うかは、端的にその人の態度が表れる場だ。僕の子どもへの注文は「作品の中に実在の身近な人物を登場させる場合は、それがどんな文脈でも本人の許可をとれ」くらいで、いじめとか自殺とか殺人とか、あと実際にはまだお目にかかっていないけれど性的にきわどいシーンとか、そういう理由で出版をさしとめることはしていない。
目次
たくさん「殺して」きた創作体験
それは、おそらく僕自身の創作体験が大きいのだと思う。僕は小学校から高校二年生くらいの頃まで、寝る前に文章を書いてから寝る習慣があったが(下記エントリ)、そこで、実に多くのいろいろな人を「殺して」きた。
書いていた文章は好きな物語の二次創作っぽいもの。だから、三国志や銀英伝の影響で戦いで死ぬのはもちろんのこと、特に中学時代は江戸川乱歩にもはまっていたこともあり、それっぽいものも書いていた。覚えているところでは、「学校の生徒会長を勤める秀才が、表面上はいじめられっ子をかばうふりをして、いじめられっ子からも唯一の味方と信じられているにもかかわらず、実は誰にも気づかれないように周囲の人間を操作して、その子をいじめる空気をつくり、自殺においこむゲームを楽しんでいた」という超大作(笑)を構想し、執筆していたこともあった(これは乱歩の「赤い部屋」を読んで思いついたものだが、構想力に筆力が追いつかなくて途絶したはず)。そうそう、文化祭でも「道路掃除夫」という、悪人をゴミに見立てて殺していくお芝居をみんなで作ったこともありましたね。文化祭の演劇のオリジナル脚本の時は、誰かが死ぬ作品が多かったので「殺しの44期」って自分たちで自虐していたなあ….。(44期っていうのは、自分の中高の学年のことだ)
おそらく、どんな理屈よりも先に、そうした自身の創作体験によって、僕は「物語の中で殺人を描く」ことに寛容になっている。だから、以下はその姿勢を擁護するために理屈をつけた「ポジション・トーク」との批判を承知で書くことだ。
「物語」だからこそ、死を気軽に扱える
僕の「作家の時間」では、事故で死んで転生する話はもちろん、殺人とか、暴力とか、いじめとか、親との確執とか、教師によっては「それはアウトでは?」と判断に迷う話がけっこう出版される。ちゃんと数えたことはないが、そういう話が全くない作品集はない、くらいかもしれない。
しかし、子供たちはなぜそんな話題を好んで書くのだろう。おそらくは、死とか、暴力とか、いじめとかが、子どもたちにとって関心のある話題だから。言ってしまえば魅力的だからである。にもかかわらず、通常これらの話題は人間社会の中ではそれなりの重さを持っており、軽々しく口にできない。そういうくびきを脱して、死や暴力を「軽々しく扱える」ことが、物語というジャンルを書くことの、子どもたちにとっての魅力の一つなのだろう。
これが、もし意見文や説明文や生活文などのノンフィクションであれば、死や暴力を扱うのにはそれなりの重さや慎重さが問われる。そこまでの覚悟や準備は子どもたちにはない。しかし、物語であれば「気軽に人を殺せる」。死という自分の興味の対象に、物語という薄膜をへだててさわってみる。物語というジャンルは、子どもにとってそういう機能も持つ道具なのだ。そのときの死は、もちろん現実の身近な死と比べてもはるかに軽く、存在感はない。そこを苦々しく思う大人もいるだろうが、子どもたちからすると、だからこそさわれる、のかもしれない。
書き手を守るフィルターとしての「物語」
話は変わるが、「親子」というのも子どもの作品で出てくるテーマの一つ。そして、子どもが物語の中で親と確執をもつ人物を主役にした話を書くことが時々ある。この子の保護者がその作品を読むと、「我が子がそんなことを思っていたのか」と心配になる。そりゃあそうだろう。しかし、これがどの程度「心配」に値するのかわからないところが、物語の良さである。もしかして幾分かは、現実の親子関係を反映しているのかもしれない。でもそれも、本人がずっと親に不満を抱いているのか、過去にそんな瞬間があったのを思い出して書いたのかはわからない。そもそも、本人にはそんな気持ちはなく、たまたまドラマや本で見かけた設定を使いたくなったのかもしれない。
そういうグラデーションのどこかに真実はあり、複雑な成立事情を一言に要約すると「ま、現実とフィクションは違いますから」ということになる。親のモヤモヤは解消されないが、そういう周囲の詮索から書き手を守れるのもフィクションの良いところだ、と僕などは思う。この場合、物語という薄膜は、現実の厄介な視線から書き手を守るフィルターとして存在している。
もうちょっと考えてみたいところ….!
「作家の時間」で、子どもたちの多くは「物語」を書きたがる。それはなぜだろうと僕も日々思うのだけど、その理由の一つは、物語というジャンルが、自分の興味の対象にさわったり、現実の他者の視線から自分を守ったりするための薄膜になってくれるから、なのかもしれない。というわけで、僕は子どもたちが物語という薄膜をへだてて死を軽々しく扱うことに対して、少なくとも非好意的ではなく、まあそんなものだよな、自分もそうだったしな、と思って見守っている。
とはいえ、最初にも書いた通り、これは自分の創作体験がベースにある考えで、教育という視点から考えた時に、教室空間の中で、子どもが死を軽々しく扱うことを容認する姿勢への批判をする人は、当然出てくるだろう。これはどこで線引きするかの話で、その批判は受けないといけない。
例えば僕だって、(現実にはほぼありえない想定だけど)子どもがポルノを書いてきたら、おそらく出版を容認しないだろう。死も性も子どもが(というより人間が)興味を持つ最たるものなので、そこの線引きはなんなのか、もうちょっと自分でも考えないといけない。「見て不快になる人がいる(多い)から」という荒い理屈だと、下手すると自分が気に入らないどんな表現でも弾圧できてしまうので、実際の表現規制をめぐる議論も勉強する必要があるかも。
つらつら書いてきたが、「物語」が持つジャンルの特性を活かして子どもたちが自分の興味関心を形にすることを、僕は基本的には最大限応援したい。しかし、「線引き」についてまだまだ考えが足りないことに、書いていて気づかされた。「作家の時間」をやっている方は必ず直面する問題なのだと思うが、この問題についてどう考えているのだろうな。意見交換したいところだ。