今日は、昨日の続きの短めのエントリ。同僚と話をしながら考えたことを整理する、自分のためのDiscovery Writing(発見のための書きもの)。
書くのが好きな子たちのスタイル
僕自身の子ども時代がそうだったように、子ども時代(ここでは、小学生を想定しよう)に「書くのが好き」な子のスタイルには、ある共通点がある。計画しない、その時の思いつきで書く、推敲しない、ふりかえらない。助けも求めないし、改善しようともしない。ただ書きたくて書く。それだけでワクワクして、楽しい。書き終えると、「見て見て!」とは言ってくるけど、こちらの反応にそう左右されるでもなく、もちろん建設的なフィードバックなんかは求めていない。うまく書くことは求めていない。書き上げるだけで嬉しいのだ。親切心での「こうしたほうがもっと良いよ」という大人の台詞は、まさに余計な一言になる。
こういう書き方は、大人の目には「メタ認知できていない」「計画性がない」と未熟に見える。けれど、大人の僕たちがすでに失って久しい、この時期にしか書けない書き方でもある。ある時期(小学校高学年〜中学校頃)になると、多くの場合、子どもたちもより良い質を求めて(あるいは先生から要求されて)文章を書くように変わる。その文章の質を教室のクラスメートと比較されるようになり、多くの場合にそれが書くことへの苦手意識と結びつく。また、これに並行して、文章を書くことそのものを楽しむのではなく、何らかの(連絡とか、テストとかの)実用的ゴールのために文章を書くようになる。そして、必要感がなければ文章を書かなくなっていく。
こんなふうに大人になる過程で、僕たちは書き手として何を得て、何を失っているのだろうか。『新作文宣言』での、こんな言葉を思い出す。
いい作品を書こうなどと思わなかったころ、わたしたちの筆はそれだけでもうごいたのではなかったか。こどもたちが何のためらいもなく線を引きはじめるのは、そのためではないだろうか。
子どもには「子どもらしい文章を書く時期」がある
もちろん、上記の子どものスタイルは「書くのが好き」な子のスタイルである。何か手立てがないと書き出せない子もまた多い。しかし、その子達に必要なのは、計画すること、推敲すること、振り返ることのような、「大人が文章を書く時の手立て」なのだろうか。僕が考えたいのはそういうことだ。そもそも、子どもはワーキングメモリーが未発達のため、大人のような読者を意識した書き方は難しいのだ、という研究もある(下記エントリ参照)。子どもには、「子どもらしい文章を書く時期」がある。大人の書き方を前倒しで教えるのではなく、子どもの時期だからこそできることは何かを考えたい。これは、僕自身もまだつかめていない、探究を深めたい問いだ。
国語の教科書を見直してみる
小学校の国語の教科書を、数社、開いてみる。課題の設定の仕方、取材の仕方、構成の組みたてかた、友達と読み合うときの相互批評のポイント….教科書には、早ければ低学年のうちから、計画的に書くための、大人式の手立てが満載だ。もちろん、ふりかえりがつくのも現代の教科書の常識である。無計画でいきあたりばったりな子ども時代特有の書き方を、ねこそぎ奪い取るような、大人目線の教科書で子どもたちは書くことを学んでいく。
思いつきで書く、計画しない、推敲しない、ふりかえらない…そんな子ども特有の書き方を、「欠損」ではなく「力」として捉え直してみよう。萎縮せずに物怖じせず書く。柔軟性がある。勢いがある。切り替えが早い。書き上げるだけで満足。どんどん書く….。子どもの文章の書き方のポジティブな側面に光を当て、それを活かしきった時に、国語の教科書はどのように書き換えられるのだろうか。いや、それ以前に、自分の作文の授業はどう変わるのだろうか。そういうことを、ふと考えた。