宇佐美寛『私の作文教育』を読んだ。「『私の』作文教育」と「私の」がついていることからもわかるように、著者の宇佐美先生(と、敬称をつけたくなる文章を書く人なのだこれが)の人格が全編ににじみ出ている本である。その意味では、作文教育の本でありながら教育論・人生論的な趣もある。そして、歯切れ良い戦闘的文章で、たぶんファンの国語教師は多いと思う…。
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敬愛すべき(されど身近にいると面倒くさそうな)宇佐美先生の生き方はさておき、純粋な文章作法の本として読んでも、この本には有益な知見が多くある。代表的なものを二つ。
(1)「まとめて簡潔に」ではなく「徹底的に具体的に」書く
宇佐美先生は、要約を害悪とし、具体例を重視する。理由は、一般的に抽象的な用語を使うことで、それぞれの語の吟味がおろそかになる傾向があるからである。また、要約によっておおざっぱでいいかげんな文章把握になることにも警鐘を鳴らしている。そうではなく、徹底的に具体例にこだわりぬくことで、考える材料を増やし、厳密に考え、記憶にも残りやすくせよという。ノート術も同様で、まとめを書くのではなく、「面白い、低級な、まとまっていない事例をこそノートせよ」と言っている。
宇佐美先生のこの指摘には、はっとさせられた。僕自身の欠点を的確に指摘された気がする。抽象的な語でわかった気になるのではなく、具体的な経験から理解することが、自分には欠けているかもしれない。
(2)一文一義の短文を、接続詞でつなげて書く
文章は一文一義の短文でないといけない、とする。第一に、短文でないと読者にとって負担となる。また、書き手にとっても、短文であれば、細部まで意識を行き届かせて、考えながら書くことができる。長い文だと、大きい範囲をぼんやりとしたおおざっぱな思考でまとめることになってしまう。だからこそ、書き手は、短文を接続詞でつなげ、積み重ねながら書くべきなのだ。
こちらのほうは、至極納得がいくことだ。僕自身も、生徒にはよく語っていることだから。
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また、この本で一番面白いのは吉田章宏氏との誌上論争を回顧している箇所だ。論争自体の紹介は読んでいただくとして、ここでの宇佐美先生の議論の仕方、具体的には「ある立論に対して、他者が「ここがわからないから説明してくれ」と言ってきた場合の対応の方法」が非常に面白い。まとめるとこんな感じ。
1)まず、「わからない」のはあなたの心的状態の愚痴であるから、それに対応する責任は著者の私にはない。私は、誰にでもわかるように書いたのである。
2)その上で、「わからない」のであれば、それがなぜどうしてわからないのかをあなたが説明すべきである。私の文章を具体的に十分に引用し、「だれが考えてもわからないはずだ」という立論をして、それが普遍的な疑問であることを論証すべきである。そうであれば私は対応しよう。
3)そこまでの手続きを踏まないのであれば、それは、単純に相手に「わからない」と言うだけで相手の返答の失言に期待して待っているだけのものとみなして、対応しない。
また、吉田氏が次々と「おたずね」と称した質問を投げかけてくるのだが、これにも宇佐美先生は、
その質問に答えることが、ここでの議論をする上でなぜ必要なのかを論証せよ。そうしない限り、質問を返答する際の失言を期待して待っているだけとみなして、返答しない。
という態度を一貫して保っている。正しい。まことに正しい態度である。香西秀信さんなどが泣いて喜びそうな対応だ。しかし、これを相手にやられたら相当むかつくだろうなあというのも想像に難くない。職員会議などでは使わないほうがよさそうだ(笑)
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この本は、全体として宇佐美先生の明快でブレのない思想と文体が一貫しており、読んでいて心地よささえ覚えること間違いない。しかし一方で、自分が宇佐美先生のような作文教育をしたいかというと、あまりそうは思えないのが不思議である。あまりに戦闘的だからだろうか。宇佐美先生のこの態度は、おそらく「学問の世界における互いの合意に基づいた協働的戦闘」なのだろうけど、こうした姿勢を、広く学生や生徒にも要求するのはちょっと無理がある。というか、大学人・教員同士でさえ無理があるのではないか。
単純な話、少なくとも中等教育段階においては、一語一語の意味を詳しく吟味されて矛盾を指摘されたら、励みにする生徒よりも書くのが嫌になってしまう生徒のほうが多くなるはずだ。そういう観点から言えば、この本には生徒の動機づけの話があまり出てこないのは気になっている。
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宇佐美先生の作文教育は、「書かずばやまじ」という思いを持つ人や、書くことにある程度の経験がある僕のような人が読んで、「すみません先生、自分などまだまだでした」と反省するのには最適の本である。しかし、書くことが楽しくなったり、お互いに読み合って刺激をもらったりするには、必ずしも向いていない。
というわけで、宇佐美先生のありがたい教えを受け取り、我が身を反省しつつも、「作文修行」的な宇佐美先生の授業とは少し異なる理想像を目指していけたらと思っている。