なぜ学校の国語の授業で物語を書くのか?

昨日、無事に中2生徒の成績を出し終えた。この期間はかなりハードだけど、生徒たちの書いた物語を読むのはとても楽しい。今回は帰国後初の物語系のライティング・ワークショップということもあって、「なんで授業で物語を書くのか?」「どう採点するのか?そもそも採点できるのか?」ということを改めて頭の片隅に置きながらの採点になった。おそらく、同じようなことを思っている同業の方は少なくないと思う。今回のエントリでは、「なんで学校の国語の授業で物語を書くのか?」ということに対する、現時点での自分なりの考えを書いてみたい。

このエントリでは、物語という言葉を、小説と置き換え可能なものとして使っています。文学だけど詩じゃないアレです

目次

なぜ学校の国語の授業で物語を書くのか?

「学校の国語の授業で物語を書く」というと、反発を感じる方も少なくないと思う。「そんなもの役に立たん!」という「物語は読むのも書くのもただの個人の趣味で、やる価値ないと思っている人」から、「学校で物語を書かせて先生に評価されるなんて!」という、「物語の読み書きに思い入れがあり、それを国語教師に台無しにされたくない人」まで。右から左まで、ほんと幅広い層からの反発が予想される。プロの小説家を目指すわけでもない生徒たちが、なぜ学校の授業で物語を「書かされる」のか?そう思ってる人は多いと思う。

変化していった自分の認識

僕自身も、8年ほど前にライティング・ワークショップを始めた頃は、物語を書くことに関しては最初は懐疑派だった。何しろ僕は「国語の学力向上のためにライティング・ワークショップを始めた人」なので、「物語を書く」ということが、「子どもっぽいお遊び」に思えていたのだ。小学校の国語の授業では宝の地図を見てお話を書いた経験があったから(下記エントリ参照)、余計にそう思っていたのかもしれない。実際、はじめてライティング・ワークショップに取り組んだ中1では、ゲームのノベライズのような作品もけっこうあり、当時は良い作品を書かせたいと思っていた(プロセスよりもプロダクトに目を向けすぎていた)ので、「これで国語の授業をやってると言えるのかな」と思った時期もあった。

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ただ、その学年で3年間通してライティング・ワークショップをやったことで、その思いはだんだん変わっていった。第一に、長期的な目で見ると、たしかにある瞬間(具体的には中2の冬くらいだった)に書くものがぐっと大人びてくる瞬間があった。それまでは自分の身の回りのことやゲームや星新一風のお話ばかりだったのが、人間の負の感情を描いたり、母親と自分の関係を描いたり、主人公を性的マイノリティーにしてみたり、テーマも視点の取り方も、明らかに幅が広がってきた実感があったのだ。もっとも、これは、単に「発達段階としてそういう年齢になっただけ」であって、別に物語を書くことの効果ではなかったかもしれない。でも、僕の中での「物語を書くこと」への印象の変化に影響を与えたのは間違いなかった。

第二に、生徒自身も予想よりも物語を書くことに積極的だった。当初の僕は「物語を書くのは子どもっぽいから」で、「年齢があがれば主張文や論説文系に移っていくだろう」と思っていた(この思い込みには、中高時代の僕が物語よりも歴史系のノンフィクションを中心に読んでいた影響もある)。しかし、中1からライティング・ワークショップをやっていた子たちに中3の時点でジャンルを自由に選ばせると、生徒の7割近くが物語を書くことを選んだのだ。きっと物語を書くことには魅力があるに違いない。このことも、物語を書くことに対する僕の印象を変えた。

そんな風にして、僕は「物語を書くって意外に価値のあることなのかも?」と思うようになっていった。

答え1:学習指導要領に書いてあるから

さて、どうして学校の国語の授業で物語を書くのか。もっとも説得力がありかつつまらない答えは、「学習指導要領にそう書いてあるから」である。次は、中学2年の「書くこと」からの抜粋だ。

(1) 書くことの能力を育成するため,次の事項について指導する。
ア 社会生活の中から課題を決め,多様な方法で材料を集めながら自分の考えをまとめること。
イ 自分の立場及び伝えたい事実や事柄を明確にして,文章の構成を工夫すること。
ウ 事実や事柄,意見や心情が相手に効果的に伝わるように,説明や具体例を加えたり,描写を工夫したりして書くこと。
エ 書いた文章を読み返し,語句や文の使い方,段落相互の関係などに注意して,読みやすく分かりやすい文章にすること。
オ 書いた文章を互いに読み合い,文章の構成や材料の活用の仕方などについて意見を述べたり助言をしたりして,自分の考えを広げること。

(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 表現の仕方を工夫して,詩歌をつくったり物語などを書いたりすること
イ 多様な考えができる事柄について,立場を決めて意見を述べる文章を書くこと。
ウ 社会生活に必要な手紙を書くこと。

今回の僕のライティング・ワークショップは中学2年のものなので、学齢的にもぴったりだ。僕も、論理武装したい時はまずこの答えを用いる。また、現在はまだ案の段階である新学習指導要領でも、中1で詩や随筆、中2で短歌や俳句、物語の創作が活動例として示されており、広い意味での創作が扱われている(新旧比較表は下記エントリを参照)。学習指導要領を根拠にしたこういう主張は、面白くはないけれど、まあ押さえるべきポイントだろう。

[資料] これは便利、学習指導要領(案)の新旧対照表

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「創作」が、戦後以降の学習指導要領の変遷の中でどう位置づけられてきたかについては、下記エントリを参照してください。

学習指導要領「書くこと」を読む:まとめ編

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答え2:物語創作を通じて学べる言語の技法があるから

第二の答えとして、「物語の創作を通じて学べる言語の技法があるから」という理由がある。国語をざっくり「日本語の運用技術」を学ぶ教科だとすれば、評論ではなく「物語を通してでしか学べない、あるいは物語を通してのほうが有効に学べる言語技術」というのは確かに存在する。時系列に沿った叙述の方法、人称の操作、話法、感覚的な描写、比喩などが代表的な例だろう。それらを学ぶときには、評論よりは物語を扱ったほうが効率が良い。そして、読むだけでなく書くことも取り入れたほうが、よりいっそう効果的である。

この立場に立った時、物語を書くことは「特定の言語の技法を体験を通じて学ぶための学習方法」ということになる。これは、アメリカのライティング・ワークショップの実践者ナンシー・アトウェルが「短い分量で様々な表現技法を学べる」と詩の創作を重視するのと、似たような立場だと言えるだろう。

[ITM] アトウェルはなぜ詩を重視するか

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さらに、こうした物語での表現技法は、薄められた形であるとはいえ、いわゆる「論理的な文章」にも散見される。僕が思うに、論理的な文章とは、その言い方がもたらす印象よりもはるかに「文学的」で、きれいに線が引けるものではない。したがって、ここで学んだ技法は、「実用的な」ジャンルの文章を書く時にも役に立つと思う。

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評論は論理的文章だけれど「論理的」ではない?

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答え3:人は物語の力で生きているから

最後の、そして僕にとって最も大切な理由は、かなりウェットな表現になるのだけど、「人は物語の力で生きているから」というものだ。人は物語の力で生きている。折に触れ、そんなことを思う。いま読み返したら恥ずかしいのだけど、過去にもその思いを書いたエントリがあった。一部抜粋してみる。

このように、現実が突然その不条理さを剥き出しにする時、物語の力は一層求められる。そもそも生まれたのも自分の意思ではない。生きている途中も、突然の事故・親しい人の突然の死・失恋・大災害・小さな違和感の積み重なりなど、想定しない多くの現実が僕達に襲いかかり、物語に軌道修正を迫る。そういう時に僕達は困惑し、途方にくれ、「なぜこんなことになったのか」「なぜ自分がこういう目にあわないといけないのか」をひたすらに問う。しかし、何度も問いを繰りかえし、語ることを通じて、次第に「この出来事」を物語という形に変換し、時間軸の中に配置して、やがて自分の人生における「過去の出来事」としてその意味を語りだすことさえできるようになる。人は、物語によって現実を受け止め、物語によって現実を作り出す。それは、僕達の弱さであり、強さである。

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…うん、やっぱり恥ずかしいね、このエントリ…。とはいえ、今も思っていることはこの通りだ。

僕たちは、物語ることで生きている。物語という形式は、僕たちが自分という物語を生きる上での力になる。そして、物語を享受することはその目的に非常に「役立つ」だろう。

もちろんそれは「書く」ことに限らず「読む」ことでもいいし、映画などの広い意味での「物語」でもいい。けれど、物語を「書く」という営みは、物語や映画を読んだりするよりもじっくり物語という形式に向き合い、自分なりに物語を構築していく機会になる。自分の生きる力の源泉である物語のバリエーションを蓄積していくことにつながる。

物語を書くことを通じて、自分はこのように世界を理解していたのか、自分はこんなことを気にしていたのか、ということに気づく。物語を書くことを通じて、新たな人生の語り方を発見する。そうしたことは、物語を書くことを通じて効果的に得られることだし、そこで得られたものは、僕たちが生きることを支えてくれる。

僕はそんな風に考えて、学校の授業で物語を書いてもらっている。

学校で「書かせる」のはどうなの?

とはいえ、「物語を書くこと」自体に意味があるとしても、「学校の国語の授業で物語を書くことを強制すること」についてはまた別の議論が成り立つかもしれない。僕もこの点は認める。教室という閉じた権力空間で生徒に物語を書かせることには、あやうさがある。ただ、僕は学校の教師という立場の人間なので、その立場で「物語を書くこと」にコミットせざるをえないのだ。せめて僕にできるのは、自分も一緒に書いたり、書くことのハードルを下げたり、「共有しない権利」に配慮したり、ということくらいである。本当は、自分はファシリテーターや一参加者としてそこにいて、ミニレッスンやカンファランスは外部のプロの書き手にお願いできれば良いのかもしれない、とは思う。今はそれもできないから、自分がやっているわけだけど。

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それでも、評価の問題は重い。「そもそも学校で書かせた物語に点なんてつけられるの?」と思う。次の機会には、この点について書いてみたい。

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4 件のコメント

  • 大学時代、「短編」を書くという課題があって原稿用紙10枚、また「(文芸関係の)小論文」で原稿用紙50枚というのがありました。ともに、みんな頑張って書いていたように思います。とても有意義だったと思います。ただ、みんなの書いたものは特に読みあうというのでもなかったのが残念でした。
    高校時代には授業ではなかったけれど、文芸部員として短い物語やエッセイを書いたりしましたが、これも書くのが読むのと違ってどんなに困難か、また、逆に書くことで読むときにどんな点を創作側は考えているのだろうか、というようなことを理解できるような気がしました。そのほか文学史などの創作話などを知ると、けっこう創作者側に立てて面白かったのを覚えています。
    発信型でもあり芸術理解や自己表現にも通じる方法として、鑑賞ばかりではなく、授業で創作をやるのはとてもいいように思います。どんどんやってください。

    • ありがとうございます。はい、書くことで読むときの読み方が変わるとか、モデルにする著者の技術を学ぶということもありますよね。今後も続けていくつもりです。

  • 次の教育課程で国語は論理系によっていますが、以前のエントリーであすこまさんが疑問を呈していた理由の一つが今回のエントリーかなと考えました。物語を書くこと、ストーリーを描くことはビジネスでもつかっているなあと。物語を書くことは必要ですね。

    • 以前のエントリと関連づけて下さってありがとうございます。はい、自分の中ではつながった問題意識です!それを楽しい形でできればいいなと思っています。