「作品ではなく書き手を育てる」授業とは

ライティング・ワークショップの基本的スタンスは「成果物としての作文」(プロダクト)よりも「作文を書き上げる過程」(プロセス)に焦点を当てることにある。「プロセス・アプローチ」と言われる所以はそこだ。プロダクトではなくプロセスにフィードバックをかけることで、文章を書くプロセスを書き手に習得してもらい、自分でそのプロセスを回せるようになること、つまり自立した書き手(Independent writer)になることを目指すのである。

ということはとっくにわかっていたつもりだし、自分でもだいぶその感覚になじめていた気がするのだが、いざ実践者の本を読んでいくと、ちょっとした場面で意識の違いを感じるというか、「書き手を育てるってこういうことか」と実感させられることがある。

たとえば、以前に読んでいたCarl AndersonのAssessing Writersには、

The real measure of success is whether students continue to do what they learned after the unit is over.
(その授業が成功したかどうかを判断する本当の基準は、その単元が終わった後も生徒が学んだことをやっているかどうかだ, p224)
 


という一文があって、はっとさせられた。なるほど、授業で学んだことを、授業の外で使えるようになること、それができてはじめて「自立した書き手」であり、授業が成功したと言えるのだ。

Assessing Writers
Carl Anderson
Heinemann
2005-06-03



また、いま読んでいるLet’s Talkでは、カンファランスの場面でas a writerという表現が何度も出てくる。

“How can I support you as a writer?”
“What are you working on today as a writer?”
“As a writer, what ideas do you have today?”
(いずれもp25)
 


という感じ。


この”as a writer”という表現、日本の作文の授業で使われる場面があまり想像できない。

「書き手として、今日は何をするの?」
「書き手としてここで何を表現したかったの?」
 


….うん、自分もこんな言い方してないな。むしろ、

「ここはどういうこと?」

「ここのところがよくわからないから、もう少し説明してくれる?」
 

のように、「書き手」ではなく「原稿」をベースにした聞き方をしているはずだ。

こういうちょっとした一文やカンファランスの言い回しにも、「作品ではなく書き手を育てる」意志が感じ取れて、それが僕には面白い。こういうことをさらっと書けて(言えて)しまうかどうかって、意外と大きな問題のような気もする。

 

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