書くことはとても複雑な作業であり、そうした複雑な作業を同時並行して処理していくには、大きな認知的負荷がかかる。下記エントリでそんな話を書いた。では、この書くという営みに、人はどうやって習熟していくのだろう。今日は書くことの発達段階のモデルの話を書いてみたい。
[ad#ad_inside]書くことに関わるワーキングメモリー
こんなに複雑な「書く」という営みを、人間はどう処理しているのだろうか?それを説明する理論として「ワーキングメモリー」という考え方がある。人間が情報を記憶・処理する能力のことで、Baddeley & Hitch (1974) の提出したモデルが最もよく知られている(らしい←何しろ、僕自身もこちらの方面はよくわかっていないので…)。
「ワーキングメモリ」とは(児童・生徒のワーキングメモリと学習支援)
http://home.hiroshima-u.ac.jp/hama8/working_memory.html
このワーキングメモリー、年齢とともに成長し、また衰えていくそうだ。だから、書くことの認知プロセスを研究する作文教育の研究者たちは、ワーキングメモリーの発達に応じて子どもにどのようなことができるのかを重視する。今日は、そんな研究であるKellog(2008)から、書くことの熟達のモデルを紹介したい。
書くことの熟達の三段階
Kellog(2008)は、人間の書くことの熟達を次の三段階に分けている。
- Knowledge-Telling
- Knowledge-Transforming
- Knowledge-Crafting
Knowledge-Telling
これは書き手が事前のプランニングや推敲をほとんどせずに「知っていることをそのまま文章に書いている」段階。いうなれば一番未熟な段階。書き手の意識は何を書くかというコンテンツに集中していて、どのように書くかという点には向いていない。言い換えると、読者意識はなく、「書き手」だけが意識の中にある。
Knowledge-Transforming
書き手が、自分の書いた文章をある程度客観的に捉える段階。文章を書く目的を意識して、それに従って事前にプランニングをしたり、推敲したりする。自分が表現しようとしていることと、実際に書かれていることの落差に目を向けている。「書き手」と「文章」の間でインタラクションが起きている。
Knowledge-Crafting
書き手が、「想像上の読者」を明確に意識していて、彼らがどう解釈したかを意識しながら文章を書いている段階(単に読者は誰々、というだけでなく、誰々の反応を具体的に思い浮かべながら書く)。ここでは、「書き手」「文章」「読者」の間でインタラクションが起きている。
子どもにはどこまでできる?
さて、上記の三段階、子どもはどこまでできるのだろうか?ワーキングメモリーのうちどの程度を使えるかによって、書くことの能力が左右されるのだが、子どもはこのワーキングメモリー自体が未発達なので、Knowledge-Tellingにとどまることが多い。
Kellog(2008)やそこで引用されている論文によると(まだ元の論文は確認していないのもある)、以下のようなことがわかっているようだ。
- 子どもにとっては手書きや綴りを覚える負担が大きく、こちらにワーキングメモリーを使う。12歳くらいまでこの負担は続く。(Graham, Berninger, Abbot, & Whitaker, 1997)
- 12歳頃になると、読者の存在を推定できるようになる
- 自分で書くプロセスをコントロールできるようになるには、手書きや綴りをマスターした後で、かつワーキングメモリーの増大を待たないといけない(Graham & Harris, 2000, McCutchen, 1996)
- 書くことの熟達には、大よそ20年程度の時間がかかる
ざっとした印象だけど、小学生の間までは読者意識を持つことは難しく、自分の思っていることをただ書くだけ、という書き方になるようだ。
小学生に議論文や探究型の論文は荷が重い?
もちろんこうした話は個人差がある。しかし、この考え方に従うと、平均的な小学生の作文が、自分にとって身近な出来事を羅列していくだけの文章になりがちなことや、プランニングや推敲をしないことは、「ワーキングメモリーの発達に従った自然なこと」であるとも言える。
逆に言うと、例えば、
- 読み手を説得するような議論文を書くこと
- 準備や調査に時間がかかる探究型学習をして、その報告として構成的なレポートを書くこと
という種類の作文課題は、(それができる子は当然いるにせよ)平均的な小学生にとっては、ワーキングメモリーの発達段階に見合わない過度な負担を強いられている、ということにもなるだろう。
もちろん、トレーニングや適切なサポートによって、負荷の重い課題でもある程度クリアできる(これについては次回のエントリで書こうと思う)。「大人が勝手に限界を定めずに、どんどんチャレンジさせればいいんだよ」という考え方もあるだろう。また、議論文や探究型学習のレポートなどは、小学生に書かせると高度なことをやっている「背伸び感」もあって、成功した子には「小学生でここまでできるなんてすごい!」になるし、失敗しても、「まだ小学生だし」で済む。そんなこともあって、つい意欲的に取り組んでみたくなるかもしれない。
ただ、「もともと負荷の重いことをやらせている」「重い負荷をかけたことによるマイナス効果があるかもしれない」という点は、やらせる側が意識しないと無責任というものだ。そうでないと、「できる子」と「そうでない子」をふるい分けするただの選別になってしまう。
小学生にはどんな文章のジャンルが向く?
ある意味では当たり前のこととも言えるが、Kellog(2008) の発達段階のモデルを踏まえると、小学生というのは基本的に「子どもらしい」文章を書く時期のようだ。例えば、一日のうちで何をしたかを順番に書いていく日記。生活作文や行事作文にしても、思ったこと、経験したことを(特に読者向けの構成を考えずに)ただ書いていくだけになりがちだろう。読者を想定するにしても、先生や友達のような目の前の具体的読者を想定して伝える程度で、抽象的な読者向けに書くのは難しいのではないか。
少なくとも小学生のうちは、下手に背伸びさせず、そのような「子供っぽい」文章をたくさん書くことや、本を読んで文章のモデルを蓄積していくことを通じて経験値を増やす方が良いのではないだろうか。日々小学生を相手にしている先生方からすると「知ってるよ」なことなのかもしれないけど…。
中高で作文教育ができる体制作りも課題?
Kellog(2008)のモデルに従うと、人が読者を意識した書き方が可能になるのは中学生や高校生の段階からになる。本来なら、この段階からレベルアップした作文教育ができるようになる。しかし問題は、この中高段階での作文教育が質量ともに十分でなさそうなことだ。僕はここは教師個人の問題というより、教師一人あたりの生徒数が多すぎたり多忙だったりと「もともと作文教育ができない体制になっている」のが悪いと思っているけど、やはりこの体制はなんとかしないとまずいのではなかろうか。