今年のあすこま家の初詣は横浜中華街の関帝廟でした。のんびりした3が日を終えて、今日は僕のいつも参加する定例の勉強会があって、いよいよ年が明けたなという感じです。
目次
三学期はライティング・ワークショップの予定
今日の勉強会では、僕は二学期のリーディング・ワークショップや新聞読者投稿欄を書く授業の報告と、三学期のライティング・ワークショップに向けての相談をさせてもらいました。二学期にリーディング・ワークショップをやった高1学年で、三学期にはライティング・ワークショップを予定しているのです。ジャンルは小説かエッセイ、字数は2000字程度というのが縛り。
僕は料理についてのエッセイを書くことに
「生徒に出した課題と同じ条件で自分も書く」がモットーの僕は、今回はエッセイを書こうと思っています。前から料理文集をやってみたいなと思っていたので(下記エントリ参照)、自分で試してみるいい機会。
どうしようかな…「編集会議」
自分の書く作品とは別に目下の検討課題になっているのが、これまで下書き完成時にやってきた、文章の読み合い=「編集会議」の取り扱い。これは、完成原稿提出前に下書き原稿の提出締切を設けて、それをお互い読み合って助言をしあうというグループワーク。これまでの僕のライティング・ワークショップでは、形式に差はあれ、必ずこのワークを途中に入れてきた。そしてこの「編集会議」は、僕のライティング・ワークショップの大切な要素だ。僕は次のような意義を感じている。
「編集会議」の意義
- 自分の書いたものを他人に読んでもらい、意図どおりに伝わっている/伝わっていない、とわかる。
- クラスメートから、口頭で様々なアイディアの提案が得られる。
- 40人学級で、教師が全員の文章にきちんとかかわるのは無理なので、その補いとして。
- 実際、生徒が一番「参考になる」というのも、この時間の他の生徒からの助言。
「編集会議」をやめようかと思っている理由
でも、僕は今、この「編集会議」をやめてみようかな…と思っている。一部は以前に下記エントリに書いているが、次のようなことが気になってきているのだ。
- そもそも本来、書くサイクルは自由なはず。途中で強制的に下書きを出させる必要はない
- 他の人に読んでもらうことが効果的だとしても、誰に、どのタイミングで読んでもらうのがベストなのかは、書き手の判断による。
- そのような判断ができることも含めて「自立した書き手」であり、編集会議を続けると、生徒はその学びのチャンスを失う
- こちらでグループを組んで強制的に読み合いをさせることは、「共有しない権利」を損なう(下記エントリ参照)
- 実際、アトウェルのライティング・ワークショップでは、「編集会議」はない。生徒は必要な時に、必要な相手と読み合いをしている
とまあ色々と書いてきているけど、要は「マンネリを感じている」のだ。この「編集会議」はとてもシンプルで効果的なだけに、自分がずっとこのツールに頼っているのを感じる。本当なら「編集会議」がない状態でも生徒が必要に応じて読み合うのが理想なのに、「編集会議」に頼っていて、そちらの方向に踏み出せていない自分がいるのである。
「自分の発達段階より、生徒の発達段階」だった?
今日の勉強会では、その気持ちを話して「編集会議は本当に必要だろうか?」「そうではない別のやり方はないのだろうか」という問いを出し、実際にライティング・ワークショップで編集会議をやっている人や、そうでない人に色々と意見をもらった。
ところが、もらった意見は「言っていることは確かに理想だけど…」と前置きしつつ、「編集会議を続けた方が良い」というものが多かった。その最大の理由は、この学年ではこれが初めてのライティング・ワークショップだから。編集会議がないと、おそらく結局は下書きを他の人に読んでもらったり推敲したりすることなく、書いてそのまま提出という人が増えるのではないかというのが、というもの。実際に効果を実感しているのをやめる必要はないのではないか。「できるだけ強制しない、という理念に縛られすぎなのでは」という意見ももらった。
確かにそうだなと思う。何回かライティング・ワークショップを重ねているならともかく、最初は「編集会議」という強制力があった方が、他の人に読んで助言をもらうことのメリットを感じやすいのかもしれない。ということで、前言撤回。今の僕は、少なくとも今回のライティング・ワークショップでは、編集会議を引き続き実施する方向に傾いている。ただ、時期ややり方については、もう少し自由度を持たせてみようかな。
多分僕は今、ライティング・ワークショップの教師としての自分の発達段階として、これまでのやり方を少し変えたくなっているのだと思う。何回か実践を重ねて、マンネリを感じ始めているのかもしれない。もっと良いやり方があるはず、と思っているのだ。でも、勉強会の皆の意見を聞くと、そういう思いが強くなりすぎて「生徒の発達段階よりも自分の発達段階のことを考えていた」のかなという気もする。いずれ「編集会議」をなくす方向に舵を切りつつ、「生徒の発達段階と教師の発達段階の適切なバランス」をちゃんと見ていきたい。「自分のやりたい授業」だけで生徒を置き去りにしたら、大失敗してしまうしね。そんなことを考えながら、ちょっとずつ授業準備を始めているところです。
特に今年度を振り返って、
強制によって救われることもあるのかなと思います。
ぼくのクラスでも作家の椅子で共有を恥ずかしがってできない子たちがたくさんいます。さらには、月一回の文集の出版も、それなりに作品があるにもかかわらず自信がないのか出さない子たちがいます。その時にグループで下書きの作品を回し読みしてもらって付箋に感想をもらう、編集会議などの強制的なフィードバックがあることの価値はあると思います。その効果の度合いは、生徒や児童の実態によると思うのですが、少なくとも今年度の子どもたちには、強制的なピアカンファランスは必要だと思いました(共有してもいいよという作品の中で、一斉ですが、本当の意味で強制ではないです。本人が嫌ならぼくはやらせません)。
そうですねー、強制と自由のバランス、大事ですね。僕の場合、ジャンルと、あと文字数(2000字)は強制です。グループ・カンファランスも、ごく一部の生徒を除けば強制に近いかな? どうせなら意味のある強制にしたいです!
発達段階という言葉が響いてくださっていて、ちょっとお役に立てたようで嬉しいです。試行錯誤のこの過程、ローリング・ストーンがいいですね。ドキドキしながらやる授業が生徒の心に響くものだと思います。
純子さん、昨日はありがとうございました!自分にとってはマンネリでも、確かに生徒にとって踏むべき段階ってあるよなーと、今更基本に立ち返りました。ちょっとずつ変えていきます!