創造性、クリエイティビティ。思考が柔軟で、新しい発想ができること。それは、僕に欠けているものの一つである。諏訪正樹『身体が生み出すクリエイティブ』は、クリエイティブとはどういうことか、その源は何なのか、そして日常生活で自分たちのクリエイティビティをどうやったら磨けるのか、について書いてある本だ。同じ著者の『「こつ」と「スランプ」の研究』に続いて、大変面白く読んだので、ここでメモを書いておく。
目次
日常生活にも溢れる「創造性」
まず筆者が強調するのは、創造性とは、一部の天才の特権ではないということ。狭い道ですれ違う自動車の運転手のどちらが道を譲るかという場面や日常の会話など、僕たちの日常は「あ・うんの呼吸」で決まるような創造性で溢れているのだという。言われてみると確かに、AIだったらまだ処理できないようなその場その場の判断を、僕たちは日常的にやっている。これは朗報。頭が固くて柔軟性のない僕にも、創造性の根っこはある。では、どうやったらそれを磨くことができるのだろうか?
悩ましい、知識と創造性の関係
それを考える上で面白いのが、知識と創造性の関係である。筆者はまず、大喜利や図形の補助線問題を例に、創造性とは、常識的なものの見方や考え方、つまり自分の持つ解釈の枠組に縛られずに飛躍することと説明をした上で、解釈の枠組みをいかに外すのかを考えていく。
ここで悩ましいのは「知識」とその枠組みの関係だ。知識がないとそもそも解釈ができないので、知識は必須である。一方で、専門知識に固執すると、着眼と解釈の固定化が起きて、解釈の枠組みを超えることができない。筆者は語る。
知識を常にリフレッシュし、新しい着眼と解釈を求め続けることが、クリエイティブになるための条件であると言えよう。とても難しいことなのだが。(p57)
これは、今井むつみさんが「学びとは何か」で論じていた一流の熟達者の話と同じだ。今井さんによれば、一流の熟達者は、一連の作業の処理が自動化されるほど豊富な専門知識を持ちながら、同時に、その処理のシステムを見直し、意識的に自分の思い込みを破ろうとする。そこに臨機応変さが、つまりこの本で言う創造性が生まれる。
知識が創造性の邪魔なのではない。知識にとらわれることが邪魔なのだ。知識を豊かに持ちつつ、それに縛られない。言葉で言うのは簡単だけど、本当に難しい。
意図的に創造的になれるか?
でも、どうしたら「知識にとらわれない」ことを意図的にできるのだろう。筆者は、「自分の知覚の仕方=認識の枠組みがどのようなものか自覚して、それを意図的に封印し、別の知覚を試みる」、常に新しい着眼点を求めるタイプの認知的操作を「構成的知覚」と呼ぶ。この構成的知覚ができれば、知識にとらわれずにすむ。では、どうやって?
ここで筆者は、建築家のスケッチ、お笑い芸人のボケとツッコミ、将棋の羽生善治氏の次の一手などの事例をあげつつ、臨機応変な発想は、膨大な知識からその都度意識的に選択されて適用されるのではないと述べる。
「思考の枠を外そう」とすることが素晴らしい発想を生む、のではない。素晴らしい発想が生まれている時には、自然に枠が外れているだけなのだ。(p109)
創造性の源は、世界を体感すること
なんだか雲行きの怪しい話になってきた。意識的にできないなら、結局生まれつきの素質ってこと? そうではない。構成的知覚の条件、つまり創造性の源として筆者が考えているのは、「身体をその対象世界に入れ込み、あたかも触るようにその世界を見ること」である。
そうすることで、世界を外側から評論家のように観察するのとは異なり、身体と世界が密なる相互作用を始め、その世界に実際に佇んでいるかのような体感や感情が得られる。そしてその体感と感情の発露として、羽生氏であれば次の一手が、お笑い芸人であれば大喜利のあっといわせる解答や、喩えツッコミやボケが、建築家であれば新しいコンセプトの創造につながる発見が可能になる。(p120)
筆者によれば、創造性とは、頭で計画して実行するというよりも、身体の発露として繰り出す身体知なのである。だから、創造性を磨きたければ、その身体知を磨くしかない。では、それはどうしたら?
身体知を磨くための言葉
ここで面白いのが、筆者が「からだメタ認知」として、身体感覚を表現する「言葉」の大切さを強調することだ。言葉というと「頭」のもので、身体とは関係ないように思える。しかし、筆者によれば、体感に向き合い、それを言葉にして留めておくことが、身体知を磨くには非常に効果的なのだという。これについては、前著『「こつ」と「スランプ」の研究』に詳しいので、興味のある方はそちらも読んでほしい。
散歩を通じてクリエイティブに?
最後に、この本ではもう一度、日常生活に溢れるクリエイティブについて触れる。身体で世界に向き合って、自分の体が感じ取っていることに向き合い、それを言葉にする。そうやって「からだメタ認知」を繰り返すことで、次第に周囲の世界に対する着眼点や見方が少しずつ増えていき、解釈の枠組みも増えていく。自分の認識のパターンにとらわれず、身体がじかに接する世界を意識する。散歩、道草、料理のオーダー…それらに潜むクリエイティビティを取り上げ、道草を楽しむこと、散歩の時に周囲をよく見ることを推奨する。
例えば、軽井沢風越学園で大事にしている野外での遊びは、まさにクリエイティビティを育む場所。また、長野県の総合学習でひたすら散歩する実践のお話を伺ったことがあるが、それも同じ意味を持つのだろう。もちろん、単に「遊んだ」「散歩した」だけだとずっと同じ認識のフレームを持っている可能性もあるから、それを言葉にしたり、共有したりして、認識の着眼点を増やしていくと効果的なんだろうな。
「聴こうとしながら、聞こえてくるものごとを逃さない」
本書の末尾に近いところ(p205)で、内田義彦氏の「聴こうとしながら、聞こえてくるものごとを逃さない」という言葉が引用されていて、印象に残った。これ、いい言葉だなあ。
この本の文脈に沿って言えば、こうだ。僕たちはなんらかの解釈枠組みを持って世界を眺めてしまう。つまり、「聴こう」とする。もちろんそれ自体は悪くない。でも、その枠組みでは聴き取れない音が、世界には無数にある。「聴こう」としない音も自然に「聞こえてくる」状態に、自分の体を整えておくこと。それが創造性を発揮する条件なのだろう。
やや牽強付会を承知で言うと、「自分の体を整える」のは、文章を書くのでも同じだ。創造的なアイデアは、それを用意して待っている人のところにやってくる。作家ノートを用意してそこに色々と書き溜めるとか、あるいは日々本を読んでそれをメモしておくとか。僕の場合は、過去に読んだ本の感想を読書記録やブログに書いておくと、それが今読んでいる本や目の前の問題とつながって、新しい考えが生まれることが多い。
それは、知識の多寡ではなくて、こちらの「構え」の問題なのかもしれない。もしかして、日々本を読んで記録することも、僕なりの「創造性を磨くための身体の整え方」なのかもしれない。ちょうど、野球選手が毎日素振りをするように。そう考えると、「身体知」という僕から遠い言葉が、少し近く感じられてありがたい。
聴こうとしながら、聞こえてくるものごとを逃さない。素敵な言葉だ。いつか、そういう構えを持てるようになりたいものだなと思う。