僕の勤務校は、理系の生徒が多い男子進学校。この条件が揃うと世間的には「論理的」と言われる生徒が多いし、本人たちもわりとそう思っているのだが、教えてみると実際にはそうではないことがよくわかる。特に難しいのが「適切に批判をすること」だ。
たとえば課題文を読んでそれに対して批判する。相手の意見に対してきちんと生産的な批判をするためには、
(1)相手の論の論理構造を丁寧に押さえた上で、
(2)あまり重要ではない瑕瑾については放っておき、
(3)もっとも本質的な点に絞って批判する
ことが重要だと思うし、生徒にもそうできるようになってほしいと思っている。でも、それがまだまだトレーニング不足。ちょっと目を通して、おかしいと思うところに反射的に批判する生徒も、実際には多い。
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それで、ここ数年、高校生の現代文の授業では野矢茂樹さんの『論理トレーニング』を使う機会が多い。相手の論理をまずは丁寧に読もう、という主旨の、とてもすばらしい本である。課題問題には解説がないおかげで、僕にも正解がわからず、ああでもないこうでもないと生徒と議論もできる。また、色々な前提をお互い察して進む日常のコミュニケーションと論理の違いについても、おのずと考えさせられる本だ。
ただ、この本はすばらしくても、今回の期末試験を採点していても、まだ自分の授業に課題が多い感じだった。特に、(2)あまり重要ではない瑕瑾については放っておき、というのが難しいらしい。批判できそうな点を見るとついしやすそうなところから批判してしまう感じ。また、相手の論証を批判するのではなく、別の根拠を持ち出して反対の意見を言ってしまう「異論」もちらほら見られる。
これは結局、相手の議論をまだ丁寧に読めていないということなのだろう。批判することは、相手を良く理解することと同一であるのに、どこが相手の最も重要な論点で、どういう論証過程が図として描けるのかが、十分にわかっていない。過去にこんなエントリにも書いたけど、相手に寄り添って読むことができていないんだと思う。
だから「どれが本質的な批判で、どれがそうでないか」という自分の批判に対する眼も、まだ十分に養えていない。いずれも、僕の授業の課題である。
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ところで、実感をこめて生徒にも言うのだけど、日常のコミュニケーションは「論破したら負け」だ。相手を(しかも人前で)論破して、論破された相手が納得して自分の期待通りの行動をしてくれることなんて、まずない。だから、相手を論破するという行為は、日常そうそう行うべきではない。
それでも相手の論理を批判する練習することが有益なのは、
(1)覚悟して論戦しなくてはいけない時もあるため
(2)批判するという営みを通して、相手の議論をきちんと読むため
(3)相手の怪しい議論にだまされないようにするため
(4)自分の議論をきちんとチェックするため
(5)批判することを通して、より良い結論に共同で近づくため
だからだろう。特に、(4)や(5)を自分でも意識したいし、生徒にもできるようになってほしい。次にこの授業をする時には、態度としては(4)や(5)を視野に入れつつ、まずは相手の議論を丁寧にチェックしできるようにする授業展開を、もう少し考えないといけない。