「探究が生まれるとき」をつかまえる

プロジェクトとは何か?という問いは、結局のところよくわからない。この問いに正面から向き合うと前に進めなくなるので、今の僕はいろいろなテーマ・プロジェクト(スタッフ発のプロジェクト)の間をうろうろしながら、そこに国語科の観点からどんな学習が生まれているのか、そして生まれ得るのかを観察しているところ。

今回のエントリ、特に結論はないし、かなりゆるい文章です。忙しさを言い訳に更新頻度が落ちているのに危機感を覚えていて、まとまってなくても、雑文でも、書くことを続けないと、と思って書きました…。ちなみに、写真は美ヶ原高原から見える素晴らしい景色です。

言語経験をプロジェクトに埋め込むには…?

今のところの感想は「国語科的な言語活動をプロジェクトに埋め込む機会ってそれなりにあるのだな」というもの。例えば風越の7年生がやっている脱出ゲーム作りなんて物語制作そのもの。他にも、自分たちが作ったコマ撮り映画のパンフレットを作ったり、地域の人に電話をかけたり、自分が作ったゲームの説明書を書いたり…。通常の国語の教科書では学ぶための言語活動をわざわざ作っているのだけど、そういう「ごっこ遊び」と異なって自分たちの活動の文脈の中にあるので、おそらく学習効果は高い。こういう機会を使って系統的ではなくともいかに効果的に言語学習の経験を埋め込むのかが、大事な仕事なのだろう。

とはいえ、風越のテーマ・プロジェクトは必ずしも系統的ではない。探究のサイクルを回すことを目標にして、教科の基本的な概念には触ろうとしているけれど、ハイテック・ハイのプロジェクトのようにアウトプットの方法が明確に決まっているわけでもない。だから、「こういう言語経験を埋め込む」ことを先に決められるわけでもない。チャンスをつかまえて、ということになる。

「チャンスをつかまえる」センス

この、チャンスをつかまえるセンスは、かなり属人的なのかもしれない。そう思う場面にもなんども出会った。僕が一緒にホーム担当をしているある同僚は、子供との会話の中で彼らの興味を見つけ、やっていることを価値づけ、子どもの活動をどんどん探究のプロジェクトにしていく。そして、それと教科の学びを紐づけていく。もちろん教科の学習内容が頭の中に入っていることが大前提だが、それだけではない。チャンスを文字通り「つかまえる」瞬発力が違うのだ。

探究が生まれる時をつかまえる

先週、その同僚(女性なので「彼女」と書く)と久しぶりにゆっくり話をする機会があって、信濃教育の伝統的な総合学習の系譜について「総合を瞬間的に設計する」という言葉を使っていたのが、「まさに」という感じでとても面白かった。彼女は、風越のテーマ・プロジェクトと信濃教育の「総合」の違いも強く意識していて、「スタッフがテーマを与えるプロジェクトが本当に探究と言えるのか」という問いをいつも持っている。信濃教育の「総合」は常に子ども発で、スタッフがあらかじめテーマを用意して投げかけることをしない。探究は「与える」ものではなくて「生まれる」ものなのだ。だから、ハイテック・ハイのプロジェクトがとても設計的であることにも、風越のテーマプロジェクトがスタッフ発であることにも、「それが本当に探究なのか」とやや懐疑的だ(もっとも、そういう疑問を持ちながら、テーマ・プロジェクトをばりばり進めてしまうのが彼女のすごいところなのだけど)

僕は教育という営みは設計主義と無縁でいられないと思っているので、必ずしも彼女の論に同調しているわけではない。ハイテック・ハイのプロジェクトも立派なプロジェクトだと思っている。しかし、彼女ほどの卓越した実践家が語る信濃教育の「総合」の伝統には、ちょっと興味を持っている。「すごい教師は授業の話をしない。子どもの話ばかりをする」という彼女の言葉も、子どものエピソードの再現力が高い彼女自身の語りに接している僕としては、とても説得力を感じる。

プロジェクトもそれぞれ、なのだろうけど、それでも日常生活の中から探究が生まれる時をつかまえる「総合」の伝統は面白い。今回のエントリは何か結論があるわけではないのだけど、こういう話に接することのできる機会はなかなか貴重だし、彼女が同僚でいるうちに色々と学んでいかないといけない。チャンスをつかまえる瞬発力、自分も持てるようになりたい。

 

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