教科担任制と学級担任制は何が違うのか? 今年「理科専科」になった方の投稿から考える

軽井沢風越学園の2年目、小学5・6年生のラーニンググループを担当する今年は、考えてみたら「初めての小学校の先生」の年でもある。中高の国語科教員だった頃と今の違いや、その違いの意味を考える上で、最近、小学校教員のとよてつさん(豊田哲雄さん)という方の文章に刺激を受けている。とよてつさんは、小学校の学級担任を続けてきて、今年初めて「理科専科」となった方。その彼が、新しいポジションでの日々を、主に「学級担任ではなく理科専科であることの苦しみ」という形で、facebookに書かれている。そこには、「学級担任に戻りたい」という文言も見られて、以前は国語専科だった僕との違いが大きくて、興味深く読ませていただいている。一体、何が違うんだろう? 今日はそんなメモのエントリ。

数日前に44歳になりました。写真は御代田にあるフェリーチェというケーキ屋さんで買った誕生日ケーキ。ふわっとしてて美味しいケーキです。今年の目標は….ウクレレ上手くなりたいなあ。

目次

「専科」の苦しみの根っこに何があるのか?

とよてつさんが書く「専科教員の苦しみ」は、例えば次のようなものだ(以下、太字はあすこまが勝手につけたもの)。

今年は理科専科ということで、最初の方はその新鮮さに浮かれていたけれど、1学期も終わりが見えてきて、自分の非力さに打ちひしがれてきている。限られた時数の中で授業内容を終わらせていかないといけないこと、8クラス250人の子たちを把握していくことの難しさ、理科室文化を上手く作れていないこと、教科の知識のなさ、難しい実験、上手く行かない授業……いろんなことがToo muchで既に息も絶え絶えだ。子どもたちの成長を実感しにくいことが大きいなと思う。はたして1学期乗り切れるんだろうか。乗りきったとして2学期以降は? いろいろ不安が大きいな。(6月27日)

とよてつさんの苦しみが、多くの子達を受け持つことや教科知識のなさに起因することが書かれている。でも、この投稿を読んだ時点では、中高出身である僕は「なるほど、小学校の先生からしたら大変だよね。でも、それ中高の教員がみんなやってることだしねえ」と思いながら読んだだけだった。

専科教員は、形成的評価をしにくい

しかし、例えば、7月2日の次のような投稿を読むと、人数が多いことが何をもたらすのか、もう少し知ることができる。

このしんどさは、単純にコマ数の多さと担当人数の多さに原因があるんだろうなと思う。24コマ・250人というのは、少なくとも自分にとっては手に余るものだった。個々の子どもを全然把握できないし、常に授業準備に追われ続ける。最初はそうやって毎日授業に追われていたら、慣れてきて、授業も上手くなるんじゃないかと思っていたが、全然そんなことはないということがよく分かってきた。授業が上手くなるためには、個々の子どもや集団への丁寧なアセスメントが必要だし、そのアセスメントに合わせた授業準備が必要だし、またそういったことをやった上での振り返りが必要だ。しかし今の状況ではそういうことが十分にできない。そうところが辛く感じられるんだろうと思う。(7月2日の投稿)

24コマという授業コマ数は、平均的な中学校教員のそれと比べても多めに感じるが、問題はそこではない。毎週多くの生徒を相手にすることで、一人ひとりへのアセスメント(形成的評価)が十分にできないことがとよてつさんの問題なのだ。「できない」事実は、端的にその通りだろう。しかし、僕にとってより深刻なのは、「なんでこの人が感じている苦しみを、自分は中高教員時代に感じないで来られたのだろう」と思ってしまったことにある。

なぜ自分はこの苦しみを感じなかったのか?

とよてつさんが書かれている「個々の子どもや集団への丁寧なアセスメント」を、かつての僕はしようとしていただろうか。もちろん、ライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップでカンファランスの記録はとっていたけれど、他ではせいぜい大福帳(リアクションペーパー)を書いてもらうくらいではなかったかと思う。何しろ、200人以上の子供を受け持つのが当たり前の中高教員にとって、中間テストや期末テストを作って採点し、成績をつけるだけでも大変なのだ。日々の形成的評価はどうしたって無理だと思っていたし、大福帳をやるだけでも「自分、頑張ってる!」と思っていたくらいだった。
そして何より、「個々の子どもや集団への丁寧なアセスメント」ができないと「授業が上手くなれない」という感性もなければ、そういうアセスメントができないことに「辛さ」を感じる感性も、僕は最初から持ち合わせていなかった気がする。これが、おそらく僕ととよてつさんの大きな違いなのだろう。

そんな自分の授業観は?

シンプルに言えば、僕の興味はまず教材に向かっていた。その教材を扱って、多くの生徒とそも面白さや奥深さを分かち合えるだけで、僕には十分楽しかった。僕は、授業が上手くいくときも、上手くいかないときも(この「うまくいく」がそもそも何を意味するのかも今となっては怪しいのだが)、授業自体が苦痛であることはなかった。それは、基本的に僕が楽しいからだ。できるだけ多くの生徒にわかってもらおうとはしたけれど、全員にわかってもらうことも目指さなかった。
自分の授業の根っこにあったのは、予習の段階で面白くて価値がある文章に出会い、それを人と分かち合う喜びや、生徒が書いた面白い文章を読む喜びだったのではないか、と今は思う。その喜びに支えられて僕は毎週のべ280名の生徒に授業を続け、「個々の子どもや集団への丁寧なアセスメント」ができないことに、とよてつさんのような辛さは感じずに、無自覚であり続けたのだろう。一言で言うと、自己満足だったと思う。
しかしそういう、価値のある教科内容を次代の人に伝えようとする「伝達的な教育観」や、それを実行する喜び(自己満足)こそが、僕が教え続けることのエネルギー源だった。これは、「学びはその人の中から、その人にとっての意味として作られるもの」とする構成主義的な教育観とは反対だけど、自分にこの傾向が強いこと自体は認めないといけない。これは、藤原さとさんの『「探究」する学びをつくる』を読んだ時にも感じたことだ。

専科教員は、脱線の余地を作りにくい

とよてつさんは他にも、専科教員の難しさを書いている。一つは、余白や脱線の余地を作りにくいこと
酷さのいちばんの理由は、学習内容が多すぎることだ。例えば6年生の理科なんて、余白が一切ない。1時間ごとに全部予定通り終わらせていかないといけないほどだ。決められたレールの上でただただ学んでいくしかないような授業に何の面白味があるのか自分には分からない。子どもたちもきっと面白くないと思っているだろう。けど、子どもたちにはきっと「学校なんてそんなもの」という諦めもたくさんあるのだろうと思う。
そういう余白がない状況で授業をやると、授業の中からどんどん遊びが排除されていく。遊びとはつまり、脱線と同じだと自分は思っているが、脱線する余地がないとやはり授業はひどくつまらなくなる。
担任の立場だったら、その余白をつまく作れていたんだろうなと思う。例えば6年生だったら、図工で植物染色液を使って花を染めて作品を作ったり、4年生だったらとじこめた空気の実験を兼ねて、ビニール袋を使った工作をやったりと、思いつきのカリマネをやることできただろう。ビニール袋でバレーボールをしてもいいかもしれない。けど、理科専科だとそういう遊びがなかなかできない。「これで遊びたい……」となっている子どもたちを放って、授業を進めるしかないのは自分にはとても苦しい。学級担任だったら、子どもの様子をうかがいながら「じゃあ次の時間は予定を変更して、それで遊ぼう」と言えるのに。(7月1日の投稿)
これも、書かれていること自体は本当にその通りなのだろう。いま風越学園で5・6年ラーニンググループを受け持つようになり、時間割をある程度柔軟に変えるメリットを感じつつある。一方で、中高の固定化された時間割では、その「余白や脱線の余地」は作りにくい。しかし、僕自身はよてつさんのように脱線の余地のなさに苦しむこともなかったのも事実だ。

なぜ自分はこの苦しみを感じなかったのか?

なぜ「余白や脱線の余地」のなさに、自分は苦しまなかったのだろう。もちろん、そもそも中高の教員にとって固定化された時間割が「当たり前」で、疑いにくかったこともある。しかしそれ以上に、理科よりもはるかに自由度の高い現代文専門だったせいもあるが、僕は根っこのところではとても素朴に「だって国語ってそれだけで楽しいじゃん?」と思っていたふしがある。自分の提供するコンテンツの価値を感じていたのだ。これも、上の自己満足の話と同じで、僕の動機の根っこには、教科内容の面白さを若い人に伝える時の自分の楽しさがあった。それだけで十分に楽しいのだから、わざわざ余白だの脱線だのはいらなかった。もちろん、すべての生徒が僕と同じように感じるわけもないことはわかっていたから、これも、自己満足の一種である。

専科教員は、「そのままでいいよ」と「変わろう」を共存させにくい

とよてつさんの新しい日付の投稿では、さらに興味深いことも書かれていた。

以前に自分はここで、学校の先生は、子どもたちに対して「そのままでいいよ」と「変わろう」という2つの相反するメッセージを伝えるというアクロバティックなことをしなければならない存在である、ということを書いたが、その捉え方は今でもいい線をいっていると思う。そして付け加えるならば、いまの学校には、「そのままでいいよ」という部分が足りない。とりあえず子どもたちの現状を認める・受け入れるという段階が、学校全体として少ないからこそ生まれている問題は多々ある。そういう意味で、自分は学校の中にもっと余裕(空白の時間)が生まれるべきだと考えている。(7月9日の投稿)

これは、福森伸『ありのままがあるところ』を読んで以降、僕もずっと関心を寄せている「ありのまま」と「ありのままではいけない」のバランスの話だ。教師は、「ありのままでいいよ」と言うメッセージと、「ありのままではいけないよ(変わろう。もっと学ばないといけないよ)」というメッセージの両方を同時に発する存在だ、という話である。

[読書]完全な同意も拒絶もできない、揺さぶってくる一冊。福森伸『ありのままがあるところ』

2020.06.15

この両方のメッセージをどう同居させるかについて、とよてつさんはさらに書いている。

その2つのメッセージを矛盾なく同居させられることが、力量なのかもしれないです。特に去年は、ひとつひとつの関わり方とか、教室の雰囲気作りとか、そういったことを工夫していく中で2つのメッセージを矛盾なく同居させることはできるのではないか、と思ったんですが、今年は専科になって、どうも難しくなってしまいました……。(上の投稿への他の方の返信に、さらに続けたコメント)

専科よりも、学級担任の方が、「そのままでいいよ」と「変わろう」2つのメッセージを上手に同居させられる。このコメントは興味深かった。

どうしてそうなのか、もう少し聞いてみたいところだ。おそらくそれは、とよてつさんが、学級担任の方が「余白」(=余裕、空白の時間)を作りやすいと考えていることと関連しているのだろう。まず「そのままでいいよ」を伝えなくてはいけなくて、そのためには「余白」が必要だと。

この「余白」の機能にはまだ僕もよくわからないところがある。それでも、確かに専科教員の方が「そのままでいいよ」と「変わろう」2つのメッセージを同居させることが難しそうだ。というのも、専科教員とは基本的に「変わろう」ばかり言い続ける役目だからである。「そのままでいいよ」を言うには、色々な場面をその子と共にして、その子のことを深く知る必要がある。しかし専科教員は、その教科を教える場面以外では、そもそも子どもと関わりにくい。そして、その教科を教える場面とは、学習指導要領があって教える内容が決まっている以上、要約すれば「これを学ぼう(変わろう)」と子どもに言う場面なのである。

なぜ自分はこの苦しみを感じなかったのか?

だから、この点でも、おそらくとよてつさんの指摘は正しい。では、繰り返しの問いになるが、なぜ自分はこの苦しみを感じなかったのだろう。これも簡単で、そもそも福森伸『ありのままがあるところ』を読む前に、「ありのままでいいよ」と声がけする発想自体が僕にはなかったからだ。何のためらいもなく「君たち程度がちょっと考えたくらいのことは、これまでの人もとっくに考えているよ」「学びなさい、変わりなさい」を言い続けてきた。

これは、極めて単純に僕の浅慮であるだろう。しかし、あえて自己弁護すれば、前任校(筑駒)の特殊な環境もあったように思う。東京の受験競争の頂点に立つ学校に入学してきた子どもたちは、例えば風越の子に比べれば、自己有用感や自信に溢れていた(ように、当時の僕には見えた)。だから、「ありのままでいいよ」をあえて伝える必要性に、考えの浅い僕は思い至らなかったのである。

小学校高学年が教科担任制になる影響は?

とよてつさんの一連の投稿は、限られた人数(30人程度)の全ての授業を受け持つ学級担任制と、多くの人数を特定の教科だけ教える教科担任制の違いを考える上で、とても興味深い。もちろんとよてつさんは学級担任制を是とする立場だろうし、今回とよてつさんがその立場で書かれた専科教員の難しさは、どれもそれなりに考える点がある

2022年度から、小学校の高学年への教科担任制導入が計画されている。そこでは、授業力向上や働き方改革など様々なメリットが期待されているようだが(例えばこの記事にまとまっている)、とよてつさんの投稿を読むと、単純に「教科の専門家が教えれば良い」ではないことがよくわかる。教科担任制にすることは、学級担任制の良さをなくしてしまうことでもある。それに苦しみ、やる気を削がれる小学校教員も多く出てくるだろう。それはどんな結果をもたらすのだろう。

では、自分はどうしたいの?

一方で、では僕はどうしたいのかというと、ここまで書いてなんだけど、やっぱりとよてつさんとは逆で、教科担任制の教員でいたい気持ちが強い。どんなに自己満足だと言われようと、生徒主体でないと言われようと、僕にとって自分の受け持ち教科が「国語」か「そうでない」かは、ストレートに僕自身の面白さややる気に影響する。風越でも、国語の授業をしているときは楽しいけど、それ以外はどうしても単に仕事をするだけになりがちだ。よくないなあとわかってはいても、自分の感情のありようはどうしようもない。

だから、今でも僕には「受け持ち生徒が増えても、とよてつさんが書いたデメリットがあっても、国語の授業だけをしていたい」欲望が、心の奥底にある。もちろん、とよてつさんの投稿を読んだ以上は、このデメリットに無自覚でいたくはないな、と思う。それでも基本的には国語の授業がしたい。多分小学校の先生は、教科の得意不得意はあっても、ここまで大きくやる気が変わることは少ないだろうから、これは、もしかするととよてつさんには共感してもらえない欲望かもしれない。

もちろん、この欲望があるからといって、単純に中高教員に戻りたいというわけでもない。そもそも、僕の趣味に合うという点で、母校でもあった筑駒以上の職場は見つからないだろうし、そこではできなかったリフレクションの機会を風越ではもらっているから、それはそれでいい。自分の中にある感情は感情として、ちゃんと言葉にして認めて受け止めつつ(何しろ受け止めないと、わきに置くこともできない)、では風越学園の中でどうやって自分のやりがいを作っていくか、これからも考えていくのだろう。

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