「振り返り」はなぜ「かったるいアレ」になるのか

下記エントリの続き。エクセター大学での「リフレクションのモデルを選び、それに基づいて振り返る」という課題、僕は結局ブログで紹介したthe six dialogical movementsモデルを使って書いた。今日はそこから思った「書かされるリフレクション」の問題点について書こう。

対話を軸にしたリフレクションのモデル

2016.04.08

目次

「かったるい〆の儀式」としての「振り返り」

宿題を書き終えて率直に思うのは、申し訳ないけれど「発見があるにしても、授業で書かされるリフレクションというのはちょっと嫌だなあ」ということである。そして、僕は教員向けのワークショップなどで最後に書かされたり発表しあったりする「振り返り」も、実は苦手だったことを思い出した。

大切な前提として、リフレクション自体の有益さは大いに認めよう。リフレクションによって、自分の行動の根拠やその背景を問い直し、次の行動につなげる。それが、継続的な学習(変容)のエンジンであることも、一方で実感している。それでもなお、学校の授業の終わりに、例えば5分程度で生徒が書かされる「振り返り」は、「かったるいアレ」「〆の儀式」になってしまう可能性が高いと思う。その原因について書いてみたい。

ここではゆるい定義として、振り返る行為自体をリフレクション、授業やワークショップなどで最後に行う「制度化された(参加者からすると「強制される」)リフレクション」を「振り返り」と書くことにします。一応このエントリ内だけでの(あまり厳密でない)ルール。

「振り返り」が「かったるいアレ」になる三大理由

授業で書かされる「振り返り」はなぜ「かったるいアレ」になるのだろうか。思いつく理由は3つほどだ。

  1. 本人の動機を無視して「書かされている」ものだから
  2. 振り返るための時間や材料が足りていないから
  3. 先生向けの「別の何か」になってしまうから

振り返りを「書かされる」という矛盾

第一に、リフレクションに不可欠な「自身を振り返ることで、この後の行動の改善につなげたい」という本人の動機が、多くの「振り返り」では欠けている。本人の具体的な文脈と、その改善の動機がないところでは、リフレクションは発生しない。リフレクションのモデルが医療や教育などの職業教育の分野で発達してきたことからも、職業上(生活上)の必要性や動機がリフレクションのエンジンになっていることは想像がつく。もちろんそこでは先輩の教師や看護師がリフレクションを促すというシステムも存在するのだけど、根本には「職業人として向上したい!」という本人の願いがある。そしてこの願いは、「将来楽しく生きたいよね」という漠然としたものというよりも、目の前の切実感に迫られているような、具体的なもの。いくらシステムがあっても、当人の文脈や「願い」を無視して「振り返り」を書かせたら、当人としては「一体何のために?」となり「やれやれ、付き合っておくか」ということになる。「振り返り」を「書かされる」時点で、当人にとってはあまり意味のあるリフレクションにならない可能性が大きいのだ。

もちろん、もともと当人に行動を改善する意志がある場合には、「書かされる」ことがきっかけになって意味のあるリフレクションが発生する。部活の日誌ノートなどが有効に機能するのはその事例だろう。

振り返るための材料の不足

第二に、自分でsix dialogical movement を使って思ったのは、「たった5分でリフレクションなんかできるわけがない」ということだ。リフレクションの意義は、自分自身の行動や思考の前提を批判的に(他者の視点で)捉えて、自分が意識していなかったことや、自分の行動の別の解釈をあぶり出すことにある。それには他者の手助けもいる。関連文献を読むことも有益だ。実際の行動をビデオに撮るのも効果的だ。自分の考えをいったん鎮めてまた捉え直すというプロセスもいる。つまり、自分の前提を揺さぶるようなリフレクションには時間やリソースがかかるのである。

もちろん、現実的な運用の問題として、そんな手間暇をかけたことを日々やってはいられない。「ここまでやらねば正しいリフレクションではないのだ原理主義」に陥ることは避けねばならない。とはいえ、たった授業の最後の5分で、いったい何ができるのだろう。自分の思考の前提に踏み込むには、あまりも時間も材料も不足しすぎている。そんな短時間で書けることは、「〜は良かった。次回は〜を改善したい」程度のもので、そして多くの場合、それでは結局何も改善しないのである。

先生向けの「リフレクションではない何か」

第三に、「振り返り」が学校という先生ー生徒の権力空間の中で書かされることの課題もある。多くの生徒にとって、成績評価権を握る教師を読者に想定した「振り返り」は、「先生向けの、リフレクションではない何か」になってしまう。生徒によっては、素直に振り返ろうとすることと、先生向けの受けの良い「ストーリー」を作り上げようとすることの間で、倫理的な葛藤を感じる人もいるかもしれない(実は今回の課題で僕はそう感じた。昔は積極的に先生に迎合してたので、大人になったということかもw)。

では、どうすればいいのだろう?

以上を簡単にまとめると、「当人の自発的意思に基づかず、短い時間や乏しい材料で、上位の立場の者がその内容をチェックする環境だと、リフレクションはただの面倒な儀式になってしまう」のだと思う。学校は教師と生徒の権力の差に基づいた強制機関で、しかもカリキュラムもぎゅうぎゅうであるだけに、学校におけるリフレクション=「振り返り」は、どうしてもそうなりがちだ。では、どうすればいいのだろう?

このような学校の性格を考えた時には「振り返りを生徒に求めない」というのもあって良い選択肢だとは思う。しかし、一方でリフレクション自体の大切さは僕もわかるところだし、何より、「自立した大人を育てる」ということを教育のゴールにした時に、リフレクションをする態度(自分で自分を他の視点から捉えて自己成長を促す態度)は、教育の「手段」であると同時に教育の「目標」にもなりうるものだ。そう考えると、簡単に諦めるのも残念。

さて、解決策を期待してここまで読んでくださった方には申し訳ないのだけど、実はこの問題、僕にはこれ以上のことがよく分からない。実際、向後先生の「大福帳」も、僕の場合は、生徒とのコミュニケーションやカンファランスに近い使い方をしているので(関連記事参照)、リフレクションとして効果的なのかどうかはちょっと疑問だ。

大福帳、一学期の使い方まとめと感想

2015.06.25

効果的な「振り返り」については、全国には実践を重ねている人もたくさんいると思うので、きっと僕が書いたようなことは問題意識としてとっくに議論されているはずである。そういう先達から良い考え方ややり方を学びたいところ。

というわけで、どうすれば良いんでしょう、皆さん?「振り返り」を実践されてる方、経験や意見、参考文献などを教えてくださったら嬉しいです。よろしくお願いします!

追記:みなさんから頂いたコメントをまとめました

このエントリを公開後、みなさんから頂いたコメントを以下のエントリにまとめました。よかったらご覧ください。

いただいたコメントに学ぶ、「振り返り」を「かったるいアレ」にしない工夫とは?

2016.06.07

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7 件のコメント

  • アクティブ・ラーニングの流れの中で、教科の授業でも「めあて」と「リフレクション」は一種セット化され、儀式になっているような気がしますが、ご指摘の時間がない(5分程度と指導本には書いてある)という点はもちろんですが、①の強制、➂の評価という点も確かにあるなあと感じました。先生方の狙いをくみとってそれにあわせてリフレクションを作る、先生のためのリフレクション?というのもありますので、だったら小テストでの理解の確認でもよいのでは?と思ったりもしています。毎授業でリフレクションを組み込まれているケースもあり、上手く運用すればよいとは思いますが、先生方にとっても義務化されてるようにもみられますので、真面目な先生ほどそのフィールドバックに追われ、さらに忙しくなる、という悪循環にもなりがちで、だれのためのリフレクションなのかと第三者としては思ったりします。リフレクションは学びにとってはすごく意味があることだと思いますので、単元単位で一枚ポートフォリオをつくるのがよいのではないかとかんがえたりします。

    • 毎回ではなくて単元で、というのは確かにそうですね。ポートフォリオ評価も手間はかかりそうですが、毎回5分よりは効果的そうです!

  • ありがとうございます。少し考えていたプレゼンの前置きができました。採択されたら,全国英語教育学会で,ここで提示されている問いかけから入っていきたいと思います。

    • 前置きに使っていただいて構いませんので、ぜひ全国英語教育学会での考察結果をお知らせください。その問いにどうお答えになるのか、お待ちしております。8月でしょうか?まずは無事に採択されますよう。準備、大変だと思いますが、楽しみです!

      • 採択されたようですので,予稿集のための原稿を書いています。このウェブに載っている問いかけを,予稿集でも問いかけとして使いたいと考えています。よろしいでしょうか。つまり,多くの教育関係者に,この問いかけをまず読んでほしいと思うからです。多くは,振り返りの意味を深く考えずに,生徒にとって「かったるい」アレを強要していると思われる人達です。少しショックを与えたいので。

        • はい、引用元情報を明記してくだされば、どうお使いになられても構いません。何より採択おめでとうございます!

  • […] 『「振り返り」はなぜ「かったるいアレ」になるのか』(参照)という記事を読んだ。 おもしろかった。 「苦手」なのに「書かされる」「儀式」としてのReflectionがどういうものか、よくわかった。 […]