教師のデモンストレーションは「リアルタイム」で!

作文教育では、「教師が書き手としてのモデルを示す(デモンストレーションする)」ことが望ましいとされている。実際にはそれをやっている先生はおそらくあまり多くないのだけど、効果のあることは色々な論文や実践記録で書かれているし、実際に力のある先生にはそうしている人も多い。僕もそれに影響を受けて最近は自分でも生徒と同じ条件でレポートを書くようにしている。参考リンク群は下記。

教師が書く経験をすると、こんなメリットがある。

2015.04.15

「書き手」としての教師に注目してみると...

2015.04.14

作文を教える秘訣は、自分が書くこと。

2015.01.19

教師も書いている風景

2014.10.07

教師のモデルはその場の即興でないと価値がない?

ところが、ライティング・ワークショップなどを実際に体験し、自分の文章を生徒に見せるようになった教師でも、おそらく多くの場合はそれは「家で書いてきたものを見せるだけ」であり、「その場で書いている」わけではないのではないか。というか、僕がそうなのである。

そのことが、Cremin, T. (2006). Creativity, uncertainty and discomfort: teachers as writers. という論文で批判的に言及されていて、これはちょっとぐさっときた。

そのような実践(あらかじめ書いたものを見せること)は、教師のデモンストレーションの価値をまず間違いなく損なってしまう。そして、行きつ戻りつするという書くことの本質的な複雑さや、意味を生み出していくという喜びを示すことよりも、例えば、言葉遣いの特徴・文章の構成・副詞句や比喩の使い方といったことを優先させてしまう。  (p417)

 

書くことの本質を伝えるための、納得の指摘。

 これはなるほどなあと思った。もちろん、Creminは同時に、教師が「事前に用意した文章を見せること」は自信のなさの表れだと指摘し、そのことにも一定の理解を示している。ただ、書くことを教えるときの本質は、彼女が言う通り、「書くことが複雑なプロセスであること」を示すことにあるのだ。

「大人でも、文章を書くプロセスでは苦労する」「文章を他人と比較されることには不安を覚える」….僕たちが生徒に見せないといけないのは、そういう書き手としての僕たち自身の姿ではないだろうか。教師がそういう感覚を持ち、またそのことを生徒に見せることで、書くことの本質を伝えることができ、同時に教室の中で「安心な場」が生まれていくのだろう。

わかっていても、勇気がいるなあ…

思えば、最初に自分の文章を使って事例を示すのは、結構ドキドキした。どうしても生徒は「お手並拝見」的な目で見てくるし(こっちがそう意識してしまうし)、以前に実際に陰で酷評する生徒がいたのも知っている。 それをもう一歩踏み出して、その場で考える姿を見せる。これはちょっと勇気がいるなあ。

でも、ここを「えいやっ!」てやってしまえれば、だいぶまた楽になる気がする。そう、教師がモデルを示す目的は、決して「良い作品をお手本として示す」ことではない。「書くことが難しくて楽しいプロセスであることを、一人の先達の姿を通して感じ取ってもらう」 ことなのだ。うまいか下手かは問題ではない。よし、これはちょっと忘れないでおこう。

作文教育
 

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