ある方から、「カンファランスについて勉強したいのですが、参考になる本を教えてもらえませんか?」という主旨の質問をいただきました。それでお返事を書いたのですが、書き終えてお送りしたあと、この返事は将来の自分にも現時点の記録として読ませたいなと思って、その方の許可をもらってこちらにも転載します(誤記やわかりにくいところは一部修正しました)。読んでみると、相手の質問に答えるのはそっちのけで自分が学びたいことについて書いているという….(笑) いかにも僕らしい残念さはありますが、現時点で、自分がカンファランスについて何が必要だと思い、何を学ぼうとしているのかの記録として、残しています。
以下、Aさんへの手紙(全文)
Aさん
カンファランスの勉強をされるに際して連絡をくださりありがとうございます。僕自身もカンファランス・アプローチの手応えと難しさを両方感じているところなので、半ばはAさんのため、半ばは自分の考えをまとめるために書かせていただきますね。 ご希望は、カンファランスについて勉強するための書籍、ですよね。僕自身は(おそらくお察しの通り)ナンシー・アトウェルの『イン・ザ・ミドル』の影響を受けています。
アトウェルのカンファランスは、やはりすごいですね。『イン・ザ・ミドル』を読んでも、本の知識や書き方についての知識と生徒についての知識が合わさって、とても高い水準のカンファランスをしていると思います。
僕は自分の人生の中でアトウェルに「出会ってしまった」人なので、無理と知りつつ彼女の見ている風景を見たいと憧れてしまうのですが、彼女のようにカンファランスしようとすると「生徒が読んでいる本を全て読む」くらいの気概が必要なので、現実には無理だし、なかなか気持ち的にも厳しいですよね。
他では、アメリカにカンファランスの蓄積は多いのですが、カール・アンダーソン、ローラ・ロブの実践は参考になると思います。特にカール・アンダーソンのカンファランスは、「①生徒の状態を知る、②生徒に必要なものを考え、手渡す、③次のアクションに背中を押す」という構成がシンプルで、ややこしくなくて良いかなと思います。
しかし、そもそもカンファランスに正解はありません。アトウェル自身もカンファランスのスタイルを変化させています。
また、カンファランスの要点は、おそらく洋の東西を問わず、
- 生徒のことをよく知ること(点ではなく、線で)
- 自分が生徒に手渡すべき知識を整理して頭の戸棚に入れておくこと
- (①と②の前提の上で)必要なタイミングだと判断したら、戸棚からその知識を引っ張り出して手渡すこと
くらいだと思います。その仕組みを頭で理解するぶんには難しいことではないと思います。問題は、それを実践することが難しい、のですよね……。
①をするには、その生徒のことをよく理解しなくてはなりません。Aさんのおっしゃる「見取り」ですね。 ②については、読み書きの知識を持っておかないといけません。とりわけ、その作品の良さを見抜く目がカンファランスでは圧倒的に大事でしょう。 ③は、いつ、どこで知識を手渡すかという判断で、これは今でもなかば賭けみたいな感じでやっています。「この子ならいまのタイミングかな」という勘でしょうか…?
まず、①の見取りについては、それが読書などで身につくものだとはあまり思っていません(身につくのであれば読みたいので、オススメの本があったら是非教えてください)。できる人は自然にできてしまう気もします。けれど、僕は典型的な「できない」側の人間です。だから、放っておくと気づかないし気づいたことも忘れるので、とにかくカンファランスの記録を取っています。「点」を残し、それを繋いで「線」にするために。ずっと記録をつけていくと、やがて、その子がどういう書き手・読み手なのか、ちょっとずつ見えてくる感じです。
また、見取りができる人の見方から学べることはあるな、と思います。特に非言語情報の見取りについては、どんな視点から見ているのか、周囲のできる人に積極的に聞くのが良いのではないでしょうか。風越だと、保育出身のスタッフや小学校出身のスタッフにこれが得意な人が多いようです。僕は、2020年度に小学校出身の同僚と一緒のホームを見て後で一緒に振り返ることで、大変に勉強になりました。また、Aさんもご存知の方だと、石川晋さんに授業の味方のイロハを教えてもらったことも、授業を見る視点として参考になっています。
Aさんが名前を挙げていた大村はまも、まあ、カンファランスの化け物ですよね。彼女の場合はためらわずに自分が書いてあげてしまうという勇気もすごいなと思いますが、書いている間の観察が人間わざとは思えません。
こういう先達のおかげで、自分に見取りができない自覚が一層強まったので(笑)、見取りの勉強のために、僕は2021年度に週1回保育に入るつもりです。言語伝達が上手じゃない年齢の子を相手にすることが、自分の非言語情報のキャッチ力の上達に寄与すると願って…。Aさんも、ぜひご自身の現場で先達を見つけて実体験から学ばれてください。
②の知識については、これは勉強すればいいだけなので、①にくらべれば簡単です。僕は文学理論の本も読みましたが、実際に小学生の作文を評価するのに必要なのは、そういう理論よりも、「客観的に見たら少々不出来に見える作文でも、その作文の良さを見抜く目」だと思います。とにかく、放っておくと僕たちの目は作文の欠点ばかりに目を向けてしまいます。もちろん、作文の質を上げる上でそういう指摘も必要なのですけど、まずは良さを見つけること。これは、①よりもよほどトレーニングしやすいと僕は思います。
まず、「良さ」を見つける視点としては、レトリックや文章構成に関する基本的な本をお読みになれば良いかと思います。わかりやすい文章の書き方についての本はたくさんありますし、とにかく豊かに読むという点では、詩歌・俳句・短歌の優れた鑑賞文は、ちょっとした助詞の効果に注意して豊かな解釈を見せてくれるので、一見遠回りのようで近道です。特に、文芸研究者の西郷竹彦さんの詩を読む視点は参考になりますし、俳人の水原秋桜子さんの俳句鑑賞の力量には舌を巻きます。
こういう本で「良さを見つける視点」を意識されたら、あとは実践練習あるのみです。僕の場合は、自分の子供たちの小学校の授業参観で、授業見学そっちのけで他の教室の壁に張り出されている作文をできるだけ読んで良いところを見つける練習を1年間していたら、だいぶできるようになりました。我が子には嫌がられたのでおすすめはしませんが…。
生徒の作品を読むときの理想の状態は、自分でもなかなか難しいのですが、ファンになる心持ち、というのでしょうか、そういう気持ちを書き手に対して抱けると、相手の表現したいことも尊重できるし、その上で相手にとって有益な助言もできるのかな、と思います。一つ一つの作品の出来不出来を超えて、書き手としてのその子のファンになること。そうすると、その子の試行錯誤も、停滞(に見えること)も、いったん受け入れて失敗にも寛容になれます。
念のため書いておくと、「ファンになる」ことと「力をつけてもらう」ことは両立すると僕は思っていて、「この子に110パーセントの力を出してもらうには、次に何をカンファランスで働きかけたらいいだろう」ということもよく考えています。ファンだからなんでもいいよ、ではないのですが、力をつけようとするその前提として、その子のファンであるような心持ちが必要なのではないか、ということですね。
僕の場合は、もともと「子供が大好き!」タイプの教員ではないので、放っておいて「ファンになれる」わけではありません。ですので、やはりカンファランスの記録をとって「点」を「線」にして、そこに子供たちの書き手としての物語が自然と見えてくるまでの努力が必要だなと思っています。そうやって、子供たちが彼らの物語の主人公として見えてきたら、もうしめたものというか、この主人公に必要なアイテムを渡す援助者の役としてカンファランスに臨めたら、と思っています。でも、今それが充分にできているわけではありません。ですので、僕の来年度の目標は、受け持つ子のファンになることです。
ということで、自分の来年度の目標は、保育に入って見取りの目を磨くことと、子どもたちのファンになることでした。僕は僕、AさんはAさんなので、「この本を読むべきですよ」「こうすべきですよ」とはなかなか言えないのですが、参考にしてもらえたら幸いです。