[読書]デジタル時代に「深い読み」をいかに保つか?メアリアン・ウルフ『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳』

デジタル端末の溢れる現代社会において、僕たちの「読む」行為はいかに変化し、何が得られて何が失われているのか?そして、どんな処方箋があるのか? 国語教育に関係する者として、この問題は避けて通れない。というわけで、文字や読書が脳にどんな影響を与えるかを論じた『プルーストとイカ』に続く、ディスレクシア研究者のメアリアン・ウルフの本『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳』を読んだ。

大事な本だと思う。保育園・小学校・中学校で教育に関わる人や、まだ幼いお子さんをお持ちで、デジタル端末や本と我が子をどう出会わせようか考えている人には、読んで得られるものがあるはず。最近デジタルメディアにどっぷり浸かっている大人が我が身を省みるのにもいいかも。

目次

読字能力は自然には発達しない

まずウルフが強調するのは「文字を読む能力は自然には発達しない」ことである。「文字を読む」「文章を読む」のは簡単な行為ではない。視覚・言語・認知など、脳の広範な分野を起動させる複雑なプロセスだ。そして、人間の基本的な機能である口頭言語には、言葉を話し、理解し、言葉で考える能力を生み出すための専用の遺伝子があるが、読解にはそのようなものがない。したがって、ある年齢になれば自然と読めるようになったりはしない。読む力が(家庭の蔵書量や親の読書傾向などの)環境要因に大きく左右されるのはそのためである。可塑性の高い脳は、周辺の環境に応じて、その読字能力を発達させるのだ。

この問題については、前著『プルーストとイカ』の方が詳しいので、興味のある方はそちらを読まれると良いと思う。

環境の変化が読む力にどう影響するのか?

したがって、読むことを取り巻く環境が変われば、読む力も変化する。ウルフが取り上げるのが、読むことの中心が「紙の本」から「デジタル端末」に変化することで、読む力がどのように変化するかという問題だ。

ここでは色々な研究結果や著名や研究者・文筆家の議論が紹介されているが、その結論は、以前にここで感想を書いた柴田博仁・大村賢悟『ペーパーレス時代の紙の価値を知る 読み書きメディアの認知科学』とよく似ている。デジタル端末の読みでは、表層を斜め読みして、結論だけを必要に応じて手に入れるような「浅い読み」が主流になり、「深い読み」が駆動しにくくなるというものだ。

[読書]教育現場の紙と電子メディアの「使い分け」を議論するための基本書。柴田博仁・大村賢悟『ペーパーレス時代の紙の価値を知る 読み書きメディアの認知科学』

2020.12.19

「読む」ことの複雑さ、負荷の重さ

もともと、人間が生得的に持っていない「読む」能力は複雑で、負荷が重い。一つのテクストをある程度きちんと読むには、自分の持っている知識(文法的知識や話題の背景についての知識)を総動員し、その知識と目の前の単語の羅列を結びつけて、推測を働かせて意味を生成する。そして時にはそれに共感したり、本の世界の中に没入したりする。

本書の中では、その例としてヘミングウェイの有名な超短編が引用されていた(p60)。

For sale. Baby shoes, never worn.(売ります。ベビーシューズ、未使用)

このたった6つの単語から、主人公の年齢やその人に起きた出来事、そしてその心情についての意味を紡ぎ出してしまう「読む」行為は、本当に奥深いものだ。しかしそういう「深い読み」ができるには、読者の側に豊富な背景知識と、じっくりと行間を推測して意味を生成する忍耐力が必要になる。

デジタル社会の到来は読む行為をどう変えるか

ところが、デジタル社会の到来は、この「深い読み」を育てる環境を毀損しつつある。ウルフの全体のトーンは、デジタル社会の到来によって「得られるもの」よりも「失われるもの」に軸足があるのだが、僕にはこれがいちいち納得する内容だった。

大量の情報を「速く、浅く」読む読み方へ

まず、デジタル社会の到来によって人々は大量の文字情報に触れるようになった。入力が多くなり過ぎれば、認知的負荷を軽減するために、読み手は自然と簡略化・高速化を行う。知る必要のある情報だけ、サーっと斜め読みするだけで入手できるメディアを選んで読むようになる。

これは僕も実感としてわかる話だ。「デジタル社会では以前よりも文章の読み書きの量が増える」ことを根拠に、読み書き能力が向上するのではという楽観論もかつては目にしたけど、少なくとも読むことについて、今そんな楽観論を支持することは僕にはできない。デジタル社会の到来に合わせて僕たちの脳の機能自体が進歩するわけではないのだから、大量の文字に触れるようになった時、僕たちはそれをやり過ごして、浅く早く読む、つまりは「読み流す」ようにしかならない。これは思い当たるフシのある人も多いはずだ。

画面上の読みは注意力・記憶力ともにマイナス

また、筆者曰く、デジタル画面上での読みは、実際に集中してじっくり読むことに不向きである。これは、柴田博仁・大村賢悟『ペーパーレス時代の紙の価値を知る 読み書きメディアの認知科学』で示された実験結果とほぼ同一である。デジタル端末には、読者の注意力を「読むこと」そのものからそらす要因が多く(広告やらメールの着信音やらネットサーフィンの誘惑やら…)、また、物理的な手触りやページの厚さなどを記憶のフックとして使えないので、記憶にも不利になる。こうした読書端末としてのデジタルメディアの不利については、どうも様々な研究結果が出ているようだ。

[読書]教育現場の紙と電子メディアの「使い分け」を議論するための基本書。柴田博仁・大村賢悟『ペーパーレス時代の紙の価値を知る 読み書きメディアの認知科学』

2020.12.19

「知識はいらない、調べればよい」の誤り

さらに、インターネット検索の定着により、「知識はいらない、必要な時に調べればよい」という(僕に言わせれば)誤った見方も流布した。これは、読むときに読者が駆動する背景知識と関連する問題である。筆者の主張では、深い読みをするには背景知識が不可欠だし、インターネット上の様々な情報をどう分析し評価するかにも、自分が知識を持っていることが不可欠である

幅広く深く読んでいない人は思い出せるものが少なく、ひいては推測、推論、類推思考の基礎が弱いので、フェイクニュースであれ、完全なでっちあげであれ、裏づけのない情報の犠牲になりがちです。現代の若者は自分が何を知らないかを知ろうとしません。 (p79)

筆者の主張のとおりで、「知識はいらない」と言う人たちは、自分が背景知識を動員して吟味すべきタイミングが訪れても、知識のなさゆえにそれに気づくことができないのだ。そうならないためには、まずは自分の内側に「知識のプラットフォーム」を作る必要がある。

知識のプラットフォームとして、外のものより内のものの方が良いと思っているわけではありません。両方欲しいのですが、外のものへの自動的な依存が優位になる前に、内のものが十分に形成されなくてはなりません。この順番で発達する場合にのみ、若者たちは自分が知らないとき、そうとわかるのだと私は確信しています。(p123)

デジタルの読みがもたらす悪影響

総じて、「デジタルの読み」がもたらす影響について、筆者は悲観的である。私たちは、きちんと処理しきれない大量の情報を前に、認知的負荷を軽くするために、スピードを優先して「読み流す」読み方を身につける。ウェブ上の文章表現も、そんな読者のためにどんどん「短く、平易に、要約つき」になっていく。その結果、深く読むべき本を読むときでさえ、文章を時間をかけて集中して読むこと、忍耐強く意味を解きほぐすこと、批判的または共感的に読むことを失っていく

人間に「読む能力」がもともと備わっているわけではない以上、可塑性の高さゆえに深く読む能力を身につけた脳は、同じく可塑性の高さゆえにデジタルの「浅い」読み方に慣れてしまえば、深く読む能力を失っていくのである。

ちょっと文脈は違うが、僕自身、環境が読書能力に与える影響を痛感してもいる。僕は中高から小中に職場を移したことで、読む本のジャンルが大幅に変化した。小中学生が読むような本ばかり読むことになった結果として、かつては当たり前のように読んでいた学術的な専門書や選書以上の堅い本が、最近は読めなくなっている、と感じる。堅い本や難解な本は、ゆっくり、一つ一つの意味を確認しながら読まないといけない。しかし、平易な本をさらっと読むのに慣れすぎて、ゆっくりと意味を求めて読むのが難しくなっているのだ。読書もまたトレーニングであり、「深く読む」技術は簡単に失われていくのだ、と実感している。だから、筆者の懸念には共感できる。

デジタル社会でも「深い読み」を保つために

では、そんなデジタル社会における読みの問題に対して、どうすればいいだろう。もちろん一つの立場として、環境が変化すればそれに応じて読む能力が変わっていくのも当然だ、と開き直る方法もある。しかし、僕はそれはただの開き直りで、知的忍耐力や批判的能力や共感といった「失われるもの」の大きさをあまりに軽視していると思うので、支持しない(「自動洗濯機ができたのだから手洗いの技術が失われても別にいいじゃん」というのとはわけが違う)。

筆者もまた、デジタル社会においていかに「深い読み」を保つかという提案を行なっている。「読み書きリテラシー」と「デジタルリテラシー」という2つのリテラシーを行ったり来たりする「バイリテラシー」の能力を育てるにはどうしたら良いのか。バイリンガルの教育にヒントを得つつ、筆者は2歳まで、2歳から5歳、5歳から10歳の段階に分けてかなり具体的な提言を行なっている。

0歳から2歳:ひたすら物理的な本のページでめくっての人間の読み聞かせ。言語入力のほとんどを人間から得る時期。
2歳から5歳:子供に毎日を読み聞かせる。寝る前に物語を読む。他者との共感を育てる。子どもの音素についての暗黙知を育てる。デジタル機器との接触は、一日数分から30分まで。最大でも一日トータルで2時間まで。
※読み聞かせは、子どもそれぞれが対処できる量を、対処できるスピードで。子どもをよく観察して。
5歳から10歳:印刷ベースとデジタルベースの読みをそれぞれ別々に、それに集中するように教えて、やがて柔軟にコードスイッチできるようにする。
印刷ベースでは、背景知識を総動員して、集中して、注意深く、推論を働かせながら読むことを学ぶ。
デジタルベースでは、複数の資料を行き来しながら読んだり、印刷ベースで学んだ推論をこちらでも実際に展開させることを学ぶ。
→両者を別々に学び、やがて柔軟にコードスイッチできるようにする。

いずれにせよ、大事なのは、子どものことをよく見て、急ぎすぎないこと。その子に丁度良いタイミングを考えること。それは、ダナ・サスキンド『3000万語の格差』の主張にも通じることだ。

[読書]3歳までの「言葉がけ」の重要性。ダナ・サスキンド『3000万語の格差』

2019.01.20

民主主義社会の土台としての「深く読む」能力

本書全体を通じて胸を打たれるのが、「熟考・批判的分析・共感」をベースにする「深く読む」能力が、民主主義社会の形成に不可欠だと筆者が考えていることである。

書記言語の発明が人類にもたらした最も重要な貢献は、推論にもとづく批判的論法と内省する能力のための民主的土台です。これは集団的良心の基礎です。二一世紀の私たちが、きわめて重要な集団的良心を維持するつもりなら、社会のメンバー全員が、深くかつ上手に読んで考えることができるようにしなくてはなりません。(p273)

この意識はほんと大事。僕自身、堂々とこう主張できるように、子供たちが深く読む力をしっかり育てていかなくてはいけないなと思った。デジタル時代での「読む力」をどう育てたら良いか、色々と考えるべき点が詰まった良い本だった。

おまけ)ホールランゲージ・アプローチには批判的…

最後に、本書全体の流れとは無関係の、僕の関心からの言及をおまけとして書く。本書では、著者のウルフがホール・ランゲージ・アプローチにはかなり批判的であることも印象に残った。ホール・ランゲージそのものの説明はここでは省くけど、アメリカの言語教育ではかつて1990年代頃、フォニックス・アプローチとホール・ランゲージ・アプローチの対立の歴史があって、特にホール・ランゲージ派には子どもにとっての「自然な文脈」を重視するせいで、教師の直接的で明示的なインストラクションを軽視したり、短文での練習を「ドリル」として非難したりする一面があった。大規模な研究によりフォニックスの有効性が認められた後も、児童中心主義と相性の良いホール・ランゲージの教師人気は依然として一定程度高い。そのせいか、ウルフは本書の中で、「教育現場を自由にうろついている」「理論のゾンビ」という辛辣なザイデンバークのホール・ランゲージ評を引用している(p217)。

さて、ここで困ったことに、僕が実践するライティング&リーディング・ワークショップは、大きな目で見ればホールランゲージ・アプローチの一種である。桑原隆『ホール・ランゲージ』は、ホール・ランゲージ運動の中心にいたケネス・グッドマンを翻訳・紹介した仕事だが、その中でもナンシー・アトウェルがホール・ランゲージ運動の若き実践者として登場する。

つまり、ホール・ランゲージへの批判は、ライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップに対しても向けられるものだ。児童中心主義の理想に走るあまりエビデンスを軽視しているという批判は、この実践に対して常に向けられうる。実際にこのやりかたへの批判も、これまでに数多くなされている。

作文教育のプロセス・アプローチって何なの? (5)批判編

2016.07.13

もっとも、初期の(1980年代の)一部の実践者とは異なり、僕は別に「楽しんで本物の作家のように書けばそれでOK」とは思っていない。明示的なインストラクションを入れることは大事だし、読む方も多読に重点を置きつつどこで精読の機会を確保するかは常に考える必要のある問題だ。とはいえ、本書でのウルフのホール・ランゲージ批判には、改めて気を引き締めなきゃという感じがする。ほんと、頑張らないとね。

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