「自立した読み手・書き手」を育てる:岩波書店「図書」初稿より

ちょっと宣伝。岩波書店のPR誌「図書」5月号に「ノンフィクションの楽しみと出会い直す子どもたち」というタイトルの小文を寄稿しています。中学生以降の子どもたちにノンフィクションを読んでもらうこと、そして、高校での評論文につなげていくことは、前任校でも課題意識を持っていました。よかったらお読みください。

で、実はですね…。この原稿、初稿から完全に書き直しました。初稿は、「『自立した読み手・書き手』を育てる」という、軽井沢風越学園で僕がやりたいことを書いた小文なのでした。事情があってお蔵入りとなり、時期も遅らせて、5月号に現在の文章を掲載したのですが、せっかくなので初稿もブログで公開します。色々と書いてるけど、まあ、校長のごりさん(岩瀬直樹)がよく言うように、授業は発信ではなく子どもの姿が全て、ですよね。実践あるのみ!

「自立した読み手・書き手」を育てる

この原稿は2019年9月に書いたものです。

九月下旬。長野県御代田町ではもみじが早くも黄色味を帯び、朝の空気がすっと涼しくなりました。真新しい薪棚に積み重ねた薪も、皆さんがこの文章をお読みになる十二月頃には、ストーブで4人家族を暖めてくれているはずです。

都内の中高一貫校で国語科教員として十年以上働き、この春、退職してこの地に移りました。今は、来年開校予定の軽井沢風越学園という幼稚園・義務教育学校(小学校・中学校)の開校準備をしています。異なる現場で経験を積んだ同僚たちとカリキュラムを考え、また、地元の公立小学校の授業や放課後の学習教室で小学生の子供たちと関わる日々の中で、自分の常識やその根っこにある価値観を相対化し、考える時間が続いています。

と言っても、自分の常識は簡単には変わりません。例えば中高で教えていた僕には、学習をゴールから考える癖がついています。それが、風越学園で幼稚園出身のスタッフと話をすると、発想がまるで違う。彼らは、学ぶべきことではなく、子供からの話をします。その子を見とり、子供の興味から出発して、学ぶ世界を広げようとする。前者がまず学びの世界の全体の地図を大人が持っていて、「学ぶべきこと」を子供に手渡すのだとしたら、後者は、子供から出発して、大航海時代の航海者のように手探りで自分の地図を作っていく子供を、大人がどう支援するかという営みです。「学ぶべきことから」と「子供から」。どちらも大事なこの2つの視点をどう両立させるのか。それが、幼稚園から中学校まである風越学園の、大きなチャレンジの1つ。とりわけ、僕にとっては、国語教育でそれをどうするのかが大きな課題になっています。

それを考えるヒントになったのが、僕が毎週お邪魔している地元の公立小学校4年生のクラスでの、ライティング・ワークショップの授業でした。ライティング・ワークショップとは、ジャンルの指定や提出期限などの大まかな枠はあるにせよ、基本的には子供が書きたいことを書きたいように書き、先生は全員に向かって、あるいは個別に技術的な助言や励ましをして支援をする授業です。僕もこの授業に魅力を感じ、昨年まで実践していたのですが、この小学校の教室では、授業中の様子が僕のいた中高と違うのに驚きました。小学生は、「ねこのパン屋さん」や「勇者○○のぼうけん」のような物語を、構想もないまま勢いよく書きはじめ、完成したら出来不出来はほとんど気にせずに、「読んで読んで!」と見せにくる。僕が教えていた中高生たちは、じっくり構成から考えて、でもあまり見せたがらなかったので、この違いには面食らいました。と同時に、ノートに一人でお話をたくさん書いていた小学生の頃の自分が彼らと重なり、書くってそもそも子供たちにとって楽しいことなんだという思いが強まりました。

今の僕は、この「楽しい」「好き」という感情を大事にして、「学ぶべきことから」と「子供から」をつなげたいと考えています。実際、自由に好きなことを書ける環境であれば、子供たちは楽しんで書きます。ためらいもなく書き出し、すぐに書き終え、満足して次の文章に取り掛かる。書くのが苦手な子は、それでも絵でお話を楽しそうに描く。もし未熟という言い方を使うのであれば、それは確かにまだ質への意識やメタ認知が十分に発達していない、彼らの年齢ならではの未熟な書き方なのでしょう。しかし、これは大人には真似できない子供の「強み」でもある。だとしたら、それを生かさない手はありません。大人と同じように文章の構成法や効果的なレトリックを明示的に教えても、技術への関心が薄い年齢の子供たちには、あまり効果的ではない。それよりも、書きあげた作品を他の人が面白がって励まし、その作品の中にある着想や文章の良さも指摘して、書くことの楽しさを存分に味わってもらう。ちょうど砂場で遊ぶのと同じように、言葉をいろいろといじり回して、楽しんでほしいのです。そうやって育った子供たちは、言葉を通じて自分を表現することに前向きな姿勢を持つでしょう。それは書くことを学ぶ土台となり、やがて彼らが文章の質を意識し、同時に書いたものを人に見せるのをためらう時期になっても、書き続ける支えとなるに違いありません。

同じことを、読みの教育についても考えます。学校の授業では教科書の文章をみんなで読み、読む視点を学んだり、感想を交流したりすることが多い。それはもちろん価値のある活動には違いありませんが、「読むべき文章」にばかり時間が割かれて、子供達が「読みたい本」「好きな本」を読む時間が取れなくなり、いつしか読書そのものからも遠ざかってしまう。そのことを残念に感じています。もともと「ごっこ遊び」の天才である年少の子供たちにはファンタジーと現実の境目もなく、物語の世界にもすぐに没入します。子供が自分で本を選んで没入して読む時間をたっぷりとる。そんな個別の読書を中心にした読書指導にリーディング・ワークショップという授業がありますが、この授業を中学卒業まで重ねたら、子供はとても豊かな読む経験をしているはずです。

もっとも、僕は楽しければそれで良いと言うのではありません。僕の仕事は子供に読み書きの力をつけてもらうことで、そのためにも「好き」「楽しい」から始める必要があるのです。というのも、読み書きの成長にはたくさんの経験が必要で、時間もかかるからです。本をたくさん読むことで語彙力、ひいては読解力が向上することは、様々な研究でも明らかですし、書く力も、フィードバックを受けながら書き続ける以外に上達の道はありません。読み書き向上の道は長く続くトレーニングであり、中核に「好き」という動機がないと続かない。であるからこそ、特に小学校時代には読み書きが好きになってもらいたい。読み書きにたっぷりと浸り、読みたいもの、表現したいことを持って初めて、「他のものも読みたい」「次はこう書いてみたい」という意欲が生まれる。教えるのに最も効果的なタイミングは、その時です。

つまり「ありのままの子供」を全肯定して、教えないのではありません。大人には大人なりの「これを学んで欲しい」「こうなって欲しい」という願いがある。ただし、一人一人の子供の見方や文脈を尊重しながらそれを伝えるのです。そのために大人のスタッフに必要なのは、子供が思い思いに読み書きする様子を見とって、「この本はどんな感じ?」「次には同じテーマのこの本を読んでみたら?」「この作者はこんな本も書いていて…」と、必要に応じて質問をしたり、話をしたりすること。また、子供がもっと上手に表現したいと思ったタイミングを捉えて、その書き方を教えることです。こうすることで「子供から」と「学ぶべきことから」の2つは初めて繋がるのではないでしょうか。

こうした学び方を実現する上で、スタッフはとても大きな役割を担います。書くことのプロセスや表現技法についての知識を持ち、子供を見とる目を持ち、状況に応じて自分の知識を譲り渡すのです。そのために私たちスタッフはまず何をすべきなのでしょうか? 答えはシンプルです。読み続け、書き続けること。子供が読む本を自分も読むことで、初めて子供たちと話もできるし、別の本を紹介することもできる。また、自分も書くことで、書く技術も学べるし、書くことの楽しさや難しさ、人に見せる時の不安も理解できる。同じ書き手としての仲間意識も生まれるでしょう。

実際、僕も前任校でライティング・ワークショップをやっていた際、自分でも必ず生徒と同じ条件で書くようにしただけで、ずいぶん自分の見方が変わりました。安全地帯を離れて、彼らと同じ書き手の一人として授業に参加すると、書くことの難しさも実感できるし、書き上げた作品を生徒に見せる時の緊張や不安も、彼らの助言を取り入れて作品がより良くなっていく喜びもわかります。そうすると、自然と生徒たちにも共感的に接するようになる。こうした効果ははかりしれません。大人も子供も読み書きの共同体の一員として、たくさん読み、たくさん書くことが、何よりも大切です。軽井沢風越学園でも、僕たちスタッフが日常的に読み書きする環境を用意することが授業の要だと考えて、今、研修の検討を進めているところです。

こういう授業の先に、どんな子供が育つのでしょうか。ライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップの実践者たちは、目指す学習者像を「自立した読み手・書き手」という言葉で表現することが多いようです。自立した読み手・書き手。僕の考えでは、それは、読むことや書くことを自分の人生を豊かにする手段として使え、自分の欲求や周囲の必要に応じて読み書きができる人のことです。もちろんそのための技術を持っていること、例えば目的に応じて読み方を味読したり速読したりと読み方を変えられたり、特定のジャンルの書き方に則って書けたりすることも、自立の一つ。読み書きの行為の核にある「好き」という気持ちと、そんな技術を兼ね備えた人を育てたい。そして同時に、自分の「好き」から出発して、他者の「好き」も大事にできる人になってほしいと思います。例えば、自分は好きではない作品の良さや、クラスメートの書いた文章の良さを語れる人になってほしい。自分の「好き」を大事にしながら文章の着眼点を豊かにしていけば、それができるのではないか、と思っています。「自立した読み手・書き手」は、その時、自分一人のために読み書きの力を使う人ではなく、読み書きの共同体の一員として、共同体をつくり、その価値を豊かにする人でもある。読む営み、書く営みが、そこに集う人たちによって豊かになる。軽井沢の地で、そんな場づくりに挑戦したいと思っています。

 

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