ライティング・シンポジウム「ライティング指導の挑戦 アカデミック・ライティングを超えて」を視聴しました。

今日の午後、作文教育についての興味深いオンライン・シンポジウムがあった。「学術Weeks ライティング・シンポジウムII ライティング指導の挑戦 ― アカデミック・ライティングを超えて ―」というタイトルのシンポジウムで、大学における、アカデミック・ライティング「ではない」文章指導がテーマになったシンポジウムだ。なかなか面白いシンポジウムだったので、いくつか忘れないうちにメモしておきたい。

トップ画像は、黒斑山のピーク「トーミの頭」から、黒斑・蛇骨・仙人…と続く外輪山を眺めた時のもの。この時はまだ秋に入ったばかりの9月。雲が急に晴れてきて色彩の変化が鮮やかだったのを思い出すなあ。

目次

小中等教育に深く関わる内容のシンポジウム

このシンポジウム、本来は大学でライティング指導に関わっている人向けのシンポジウムだが、僕が参加したのは明確な理由がある。というのも、この企画趣旨の「ライティング指導=「レポート・小論文」(アカデミックな文章)の技術指導、という狭い見方を超え、本企画を通じてライティング指導のもつ可能性や限界を探ります」という文言を読んだ時に、「これは初中等教育の仕事とだいぶ重なるはずだ」という予感を持ったからである。だって、アカデミック・ライティングを一つのジャンルと捉え、そのジャンルの書き方を教えれば学生が自動的に書けるわけではない。その前段階として、学生が初中等教育までに、書くことに親しみ、その価値を感じ、さまざまな文章を書くことの楽しさと難しさを感じる経験が必要なはず。そして、実際にはその経験が中等教育までに十分なされているとは思えないので、そこの部分がシンポジウムでも話題になるのだろうと思ったのだ。そして、その予想は正しかったと思う。

シンポジウムは、期待以上に面白かった。3つの発表も、その後の討論も勉強になった。

  1. 谷美奈(帝塚山大学教授)「大学におけるパーソナル・ライティングの教育的意義」
  2. 寒竹泉美(作家)「書くことの可能性について――作家が書くことを指導するということ――」
  3. 川地亜弥子(神戸大学大学院人間発達環境学研究科准教授)「生活綴方実践における書くことの指導と人間形成」
  4. 森本和寿(大阪教育大学) 指定討論

アメリカのライティング教育の流れがわかってありがたい!

谷さんの発表では、アメリカのライティング教育におけるパーソナル・ライティングの歴史を概観した部分が非常に勉強になった。うっかり忘れそうになるが、アメリカにおけるライティング・ワークショップの流行も、1970年代のエルボウやグレイブスといった大学での指導者があってのことである。その背景をあらためて整理してくださったのはありがたかった。

気になったのは、「非アカデミック・ライティング」としてのパーソナル・ライティングとクリエイティブ・ライティングの違いである。英米圏の大学だとクリエイティブ・ライティングのコースもあるけれど、あれはプロの書き手を目指すためのもので、パーソナル・ライティングはまたレイヤーの異なる分類なのだろうか。あえてジャンルで考えたときに、パーソナル・ライティングに詩や物語は入っているのかな、ということも気になった。

作家が教室にくる実践、もっとやってみたい

寒竹さんの実践発表は、近藤雄生さん(『中高生のための文章読本』に作品を収録させてもらったライターさん)のチーム・パスカルに所属してライティング教育にも携わっている寒竹泉美さんという書き手を知ったこと自体も嬉しかった(風越学園にもお呼びしたいけど、京都だとさすがに遠いなー…)し、そのいろいろなジャンルの文章指導をしているその実践を丁寧に紹介してくれたのも嬉しかった。

本物の書き手に学校に来てもらってライティングの授業をしてもらいたいというのは、僕がかねがね思っているところ。実は、先週も詩人の向坂くじらさんに教室に来てもらったばかりである。本物の作家に来てもらうのは、もちろんその作家の指導ノウハウに学ぶこともできるし、それ以上に、ふだんは閉じた教室でどうしても教師ー生徒関係になりがちなところを、同じ「書き手」としての立場で書くことを経験できる貴重な機会にもなる。本当はもっと積極的にやりたいし、なんなら一年間継続的に教室に入ってくれる作家さんがいたら嬉しいのだけど、なにぶん謝金として先立つものがないのだよね…(汗)

生活綴り方と自分との距離感について考える

川地さんの発表は、生活綴り方と自分の距離感についてあらためて考えるきっかけになった。僕の作文教育はナンシー・アトウェルのライティング・ワークショップから入ったもので、大きな枠組みで言えば、生活綴り方との親和性も高い。ただ、僕は生活綴り方実践に親近感を覚える一方で、そことの心理的距離も感じている。それは、僕が無着成恭の『山びこ学校』やその後を追った佐野眞一『遠い「山びこ」』を読んだ時から感じた印象だ。生活綴り方が生活改良運動と結びつきやすいところや、あまりに全人的で、「ありのまま」や「書くことを通した認識の変革」を求められることに、息苦しさというか、抵抗感のようなものを感じてしまったのだ。

ただ、現代の生活綴り方実践の話を聞いていると、やはりすごいなあとも思う。生活綴り方を軸に学校生活を作っているという堺市立安井小学校の実践記録「こころの作文」はぜひ読んでみたい。長野県にも生活綴り方の実践者の方はいないのだろうか。いたら、ぜひ一度授業を拝見してお話をうかがってみたいところだ。

表現主義に対する批判

最後に指定討論者の森本和寿さんが、パーソナル・ライティングの理論的基盤(ここにグレイブスやエルボウの「表現主義」も入っていた)を示しつつ、そこでの「パーソナル」(個人的)という語が実は社会的に定義されるものでもあり、パーソナル(/パブリック)の境界が自明ではない(例えば、自己表現として表出しうる表現は、社会的な制約を受ける)ことを指摘していたのも面白かった。確かに….! また、書くことが自己変革につながるだけではなく、時に逆の自己認識の強化にもなるという話も森本さんから出ていたが、そういう視点も大事だと思う。さらに、終了後にTwitterで、日本語で読める表現主義教育への批判として、森本和寿(2021)「米国ライティング教育における分析枠組みの批判的検討 –ファルカーソンとバーリンの分類に着目して–」や、中内敏夫『綴ると解くの弁証法』をあげていたので、これは実践者としては読まねばならないだろう。

今回のシンポジウム、大学の初年次教育といえばアカデミック・ライティングの「お作法」を教えていると勝手に思い込んでいた僕にとって、それ以前の自己表現としての書くことの必要性が大学でも議論され、実践されていることに、とても刺激を受けた。あえて言えば、初中等教育で作文教育をしている身にとって(しかも、ライティング・ワークショップのような表現主義に属する実践をしている僕にとって)、とても目新しい情報があったわけではない。しかし、パーソナル・ライティングが目指す「書くことを通じた自己形成」や「書き手としてのアイデンティティの形成」はそのまま僕が授業で目指していることでもあるので、ヒントになることも多かった。

ライティング・ワークショップ(作家の時間)を実践する僕は、今は小学校の現場にいるとはいえ、グレイブスやエルボウらの「表現主義」の系譜に属する実践者であることには違いない。こういうシンポジウムで、自分の実践の文脈を再確認できるのはありがたい。またこういう企画があったらのぞいてみようと思う。

 

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