今日から新学期が始まった学校も多いんでしょうか。風越学園は子どもたちが登校するのは明日からということで、今日はミーティングの合間を縫って、引き続き国語の部屋の環境整備をしていました。今日印象的だったのは、小学1・2年の国語を担当する同僚とのミーティング。3学期の作家の時間をどんな方針でやっていくかを話し合うミーティングに参加させてもらいました。今日はそれについてのエントリ。
大変すぎる!小学校12年生の学習内容
小学校の先生経験がある人なら誰でもわかる話だけど、低学年の国語の授業は、実はかなり要求水準が高い。その分時間もたっぷりある(週9コマ)んだけど、とはいえ、初めて習うひらがな・カタカナ・漢字の3つの文字に出会うだけでも大変なのに、その内容がさらに大変。漢字は80個(1年生)とか160個(2年生)とか覚えないといけないし、ひらがなだって拗音・促音・撥音・長音、それから助詞「は」を「ハ」と読むか「ワ」と読むかの区別をしないといけない。句読点やかぎかっこのような表記の問題もあれば、果ては主語や述語といった概念に出会うのもこの時。僕は、小学12年生を教えた経験はないのだけど、正直これをちゃんと学ばせようとしたら無理ゲーな気がする。絶対に、おきざりにされる子は出てきそうだし、実際に多くの現場では、全てをちゃんと身につけさせようとはしてないのだと思う。しようとしたら苦しくなるでしょうね。
ただ、これだけ多くの「教えるべきこと」を前にして、12年担当スタッフも、一体何を大事にすればいいのか、本当に必要なことなのは何なのか迷っているようでした。
書く力の基礎とは何か?
この「本当に大事にしたいこと」は、その人の考えが現れるところです。例えば書くことの本当に大事な基礎って一体何なんだろうか。きっと、書くことの教育の目的に絡んで、いろんな考え方が出てきそうです。
風越での実践を経て、今の僕は、書く力の基礎は「自分が書き手であると思うこと」だと考えるようになりました。文章の上手い下手、得意苦手はもう仕方がなくあるもの。だからそれを超えてでも「自分はこんな書き手である」と自己認識ができること、その自己認識に基づいて、自分で次のチャレンジを設定できること。それを書く力の基礎に置いています。というのも、書くことの熟達には長い時間がかかるし、「次はこうやってみよう」という心の動きがないと、その上達の道のりはとても歩き続けられないからです。「今回はこうだった」「次はこうしたい」という思いを生むには、やはり子どもたちに「自分は書き手なんだ」と思ってもらうのが一番。そう考えているのでした。
もちろんこの考え方には危険もあります。「自分が書き手である」自己認識を育むという教育方針は、要するに「態度を育てる教育」なわけで、そんなものを国語教育のゴールにするのはいかがなものかという考えは当然にあると思いますね。その人たちからしたら、その子が自分のことを書き手と思う思わないはその子の自由であるから、内面に介入すべきではないという考え方になりますよね。
技術か、態度か?
教師にだって、態度ではなく、純粋に技術を手渡したい人もいるはずです。例えば、自動車教習所の教官は、運転する人に車を好きになってほしいとか、運転手としてのアイデンティティを持ってほしいなんて、願ってないはず。本人の内面には介入せず、運転に必要な技術だけを伝えることに注力する。そんな教える側の立場もあり得るわけです。
同じように、書き手だと思うか思わないかは本人の自由として、いざ書かないといけない時に必要な技術だけを淡々と手渡すのはどうでしょうか。本人の気持ちとか態度のような内面には一切介入せずに、必要な技術だけを手渡すスタンスも立派なスタンスの一つだと思います。結局これは書くことの教育を通して何を成し遂げたいのかという、教え手の書くこと指導の教育観に左右されるところが大きそう。
自分も実は、技術だけを淡々と手渡す教師のあり方にちょっと憧れるところもある。けれど、今はそのような立場は取っていません。本人に書きたいという気持ちがないところに技術を手渡しても、それは結局手渡したことにすらならないという風に考えるからです。少なくとも、小学生は技術中心に手渡すのは早すぎるんじゃないかな? 「うまく書きたい」という気持ちがないところに技術を手渡しても仕方ないし、多くの子にその気持ちが芽生えるのは小学校高学年から中学校以降な気がしているのです。それで本人が自分は書き手であると思ってもらえるように、ファンレターの返信を書くとか出版記念オーサーズトークとか自分が書き手だと実感できる様々な機会を出版後に用意しているわけ。まして、小学校1・2年の頃に大事にしたいのは、技術じゃないよなあと思うのです。
では、小学校1・2年の頃に経験するべきことや、その時期に養うべき「書く力の基礎」って何なんだろうか。つい自分の学年のことにばかり気を取られがちだけどせっかく学年の壁がそんなに高くない学校にいるのだから、できれば12年の国語の授業を通して、その問いについて考えてみたいところです。