メディアが書くことに与える影響

この記事がちょっとした話題のようで、自分のTwitterタイムラインにも流れてきた。

 ▷ さようなら「パソコン」 若者のネット接続はスマホが主流に
 
まあ、ありそうな話だと思う。記事の中に「課題はスマホで作ってネットで提出」って会ったけど、僕個人の感覚では、長文を書く時はスマホのフリック入力だと効率が悪すぎてキーボードじゃないとやっていられない。けれど、言葉の変化と一緒でこういうのはいずれ若者側が勝つ運命。良し悪しの問題じゃなくて、単に「変化」しているのだということ。

いずれこの世代が社会の中心になる頃には、(1)みんなフリック入力等でも遜色ない早さで入力できるようになっている(できない人は、今で言う「タッチタイプが遅い人」的な扱いを受ける)、(2)フリック等に代わる、スマホ等での別の長文入力法が定着する(個人的な本命は音声入力)、(3)長文を書く習慣自体が廃れていく、のいずれか(あるいはそのすべて)の変化が起きるんじゃないかと思う。

ここで強引に作文教育に話を持って行くと(笑)、 メディアの変化が「書くこと」に変化を与え、そして作文教育にも変化を与える、ということはあり得る話だ。典型的なのはPCやインターネットの登場。

PCの登場によって、「いったん書いた文章を推敲すること」や「断片的に書きためた文章を最後に編集すること」のコストは劇的に下がったはず。僕は手書きで論文を書いた経験がないのでわからないけど、PCの登場で論文や本のような長文の書き方はかなり変化したのではないだろうか(そのあたりを調べた論文はないのでしょうかね?ご存知の方、教えて下さい)。僕の授業でも、長文を推敲することを前提に書かせる場合には、今では中学生でもPCを使う。例えば4000字の文章を手書きで書いてまた書き直すなんて、僕自身がそんな苦行には耐えられないもの。

また、Richard Andrews& Anna Smith Developing Writers:Teaching and Lerning in the Digital Age によれば、1980年代以降のアメリカの作文教育でプロセス・アプローチ(出来上がった文章を添削するのではなく、作文の完成までの過程を指導しようとする考え方)が広まっていった背景には、やはり同時期にPCが学校に普及していったことがあるそうだ。なるほど、途中の段階での保存や書き直しが容易なPCは、プロセス・アプローチと相性がいい。これなんかはPCの普及が作文教育法にも影響を与えた例だと言えるかも。ただし、やはりこの本によれば、PCが作文に及ぼした効果については、「PCの登場によって文章が良くなった」という論文もあれば、「アイデアの創出に向かないため、効果がなかった」、あるいは「議論をする文章には効果があるが、創作には向かない」など、様々な評価があるらしい。

さらに、PCの普及に加えて、2000年代のソーシャルメディアやクラウドの発達のおかげで、「文章を共有すること・協働で書くこと」の敷居も下がっている。僕の授業でだって、Dropboxで作文を共有したり、Google Driveでお互いにコメントをつけたりするし、個別対応の場合にはGoogle Drive+Skypeで一緒に文章を書くこともできる時代だ。

こんなふうに、メディアの変化は僕達の書くことにも変化を与えてきたし、作文教育にも変化を与えうる。これからはどんな文章の書き方が生まれるのかな。個人的な思いつきを与太話として書いておくと、書き方は音声入力が本命になると思う。書き手がアイデアをとりあえず色々と喋ると、それが自動的にテキスト化されて、整形すればいいような感じ。そして、文章の規範的長さももっと短くなり、簡単にシェアできて、そこからフィードバックを得てすぐにまた書き直せるようになる。

もしそんな文章の書き方が定着したら、このエントリで書いたような「書き言葉と話し言葉の違い」だって、だんだんと埋まっていくのかもしれない。

「話すように書く」のは無理だという話

2014.10.12
そしてそんな時がきたら、どんな作文教育になっているだろう。楽しみなような、ドキドキするような。

(追記)
日本の学校でのコンピュータの普及状況を見ると、音声入力どころか「PCで作文の授業をする」のすら、まだまだっぽいなこれは…(^_^;)

 ▷ 教育用コンピュータ1台あたりの児童生徒数。1位は佐賀の4.3人/台。最下位、そして目標は?

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