プレーパークのような作文課題ってどんなもの?引き続き、子どもを自由にする制約について考える。

1月5日・6日と、東京にいた頃から参加し続けている国語の勉強会に出ていた。2008年1月にはじまった勉強会だから、もう15年目に入る。メンバーの入れ替わりもありつつ、でもこれだけの期間継続しているのは素晴らしいことだ。今回も実践報告を聞いたり、授業予定の相談を受けたり、教科横断が言われる中での国語科の役割について議論したり、メディア・リテラシー教材のゲームを体験したりと盛りだくさん。zoom開催が定着したおかげで長野在住の僕でも継続的に参加できるのは、コロナの恩恵とも言える。今日はこの勉強会で得たことの備忘録エントリ。作文の課題はプレーパークのようであるべき、という話だ。

写真は年末に登った離山から見た午後3時の浅間山。登山口から50分くらいでこんなにくっきり浅間山が見えるとは思ってなくてびっくり。一番右の小さいのが小浅間山、中央が浅間山、その左の尖っているのが剣ヶ峰、その奥に見える白い稜線が黒斑山、剣ヶ峰のふもと左下にうっすら雪をかぶっている目立たない山が石尊山です。

目次

原っぱと、遊具公園と、プレーパーク

今日、僕がこの会で聞いたのは、最近考えている「子どもを自由にする制約」についてだった。前にもエントリで書いた、作文教育で課題を出す時に、どんな制約が子どもを自由にするのか?という話だ。

作文教育における「自由を生み出す制約」とはなにか?

2021.12.11

実のところこのエントリで考えた後からあまり進展はないのだが、年末に『社会科ワークショップ』を読み直してユニットを「遊び場」として捉える比喩に出会ったおかげで、今では、理想の課題のイメージを考えるときに「原っぱ」と「遊具公園」と「プレーパーク」という比喩が思い浮かぶようになった。これは、『社会科ワークショップ』読書会に参加したおかげだな。

[読書]ワークショップとはなにか?を問いかける本書の読書会。冨田明広・西田雅史・吉田新一郎『社会科ワークショップ』

2021.12.30

「原っぱ」はそこに何もない状態。長田弘は「誰のものでもなかった何もない原っぱには、ほかのどこにもないものがあった。きみの自由が。」という詩を書いたが、実際にはただの広い原っぱには、子どもの創造性を刺激するきっかけに乏しい。どうしても、鬼ごっことか、単に「走る」能力に一元化されて、優劣がつきやすくなるし、そこで劣位に置かれる子にとっては遊びたくなくなる。教師が「なんでもいいよ」と言って、一見自由なのに何をしていいのかわからずに困ってしまう学習者が出るのがこのパターンの課題だと思う。

一方で、遊具がふんだんに用意された公園は、設計者の意図通りに子どもが安全に遊び、身体を動かすことができるが、設計者の意図を超えた活動は生まれにくい。子ども自身が公園の中で試行錯誤して活動を作っていくことも少ない。これは、教師が課題を細かく指定して、完全に「やり方」を決めてしまう場合。評価はしやすいが、学習者の自由度が失われ、ただおつきあいすることになりがちだ。

作文の課題はプレーパークのようでありたいと思う。全体としてゆるやかに管理された場があり、そこには子どもの活動を刺激するものがある。しかし、使い方が細かく限定されているわけではない。どのように遊ぶか、何を使うか、そして場合によっては何を作り出すかは子どもたちにある程度委ねられている。安全性は管理された遊具公園に劣るが、大怪我だけはしないように見守る大人がいる。そして、ときに遊びのアイディアを出してくれるプレーリーダーがいる。子どもたちを自由にする制約とは、このプレーパークのような場なのではないか

プレーパークのような作文課題の条件とは…

「プレーパークのような課題」という比喩で僕が考える作文の課題とは、理想的には次のようなものだ。

  • 学習者が「やってみたい!」と思える
  • 学習者が自分で選べる余地や創造する余地がある。
  • 学習者が創造するためのきっかけがある。
  • 「何すればいいのかわかんない…」を減らす仕掛けがある
  • リスクがとれる
  • 一元的尺度で結果を評価されない。
  • 失敗が怖くなくなる。
  • 結果より遊ぶプロセスに意識が行く。
  • 遊んでいる中で、子供同士の自然な関わりが生まれる
  • 学習者の主観では、遊んでいるうちにうっかり力もついてしまう。
  • 大人が安全管理できる(教員の手に負える。つまり、フォローする専門知もあり、見取りもできる)
  • 大人がデモンストレーションしたり、一緒に遊んだりする。必要に応じて遊びの提案もする。

都合の良いことばかり並べている気もするが、こういう課題設計をできたら良い。学習者がのびのびと活動に取り組んで学ぶために大事なのは、(1)学習者が自分で選べる余地や創造する余地があり(2)一元的尺度で結果を評価されない、ことだろう。また、国語科教員の僕としては、(3)遊んでいる中で、(学習者の主観では)うっかり言葉の力もついてしまう、ことも大事にしたい。もちろん力をつけることばかりに教員が注力すると、見取りの尺度が一元的になり、学習者がのびのびできなくなるので、そのリスクは十分に承知しつつ、である。

それって、具体的にはどんな課題?

今日の勉強会では、こうした現時点での僕の理解を示した上で、どのような課題がありうるかをみんなにアイディア出ししてもらった。以前のエントリでの記述と重複するが、整理のために書いておこう。

課題の「縛り」を設ける

ある「縛り」を設けることで創作への刺激とするのは、オーソドックスなやり方だ。書き出しを限定する、テーマを限定する、地図を与える、話の構成を限定する(「AはBのためCをしたが、目標は達せず、かわりにDを手に入れる」やヒーローサイクルなど)、概念で縛る(「美しいもの」をテーマに書く)、概念ではなく具体的なモノで縛る…。こうした「縛り」は時に自由を、時に不自由をもたらす。難しいのは子どもによってその効果が大きく異なることで、全員に対して一律に縛りを課すと、必ず不自由になる子が出てくる。書くことが見つからずに困っている子にだけ与えればいいのだろうか。でも、全員に貸しても大丈夫な「ゆるさ」の制約もある気がする。このへんの見極めは、実践を通じて掴んでいくしかない。

ゲーム性、偶然性を活用する

ゲーム性や偶発性を活用することで、「失敗して当然」の雰囲気をつくり、評価の尺度から学習者を解放し、創造しやすい心理的安全をつくる。これも、プレーパーク的な課題の王道といえるだろう。ひいたおみくじを見て何か書く、三題噺、「いつ」「どこで」「だれが」などの骨格をカードをひいて決める。Dixitのカードを3枚ひいて書く…。前のエントリで書いたラッキーディップ、「カタルタ」を使ったリレー作文もこの仲間だと思う。

パロディや翻案を書く

パロディや翻案も、もとのベースになる作品を使いつつ、そこに自分の案を加えることで創作へのハードルを下げる。昔話のパロディを書く、短歌や俳句の背景となる物語を書く、人生ゲームをやってそれをストーリーにする…。考えてみると、「穴埋め短歌」も読解と創作を架橋する観点から言えば、この仲間だろうか。

自分のやり方はこれ。お薦めです、穴埋め短歌。

2015.05.03

モノの感覚的な心地よさ

また、課題の設定とは異なるが、作文用紙やPCではではなく自分の好きなものに書くという案も出た。きれいな紙、色々な色のインク、自分で見つけた大きな葉っぱ…そういうモノの魅力で書きたくなる気持ちにさせる。例えば、コクヨの高級キャンパスノートMIO paperにゲルインキボールペンで手書きする時の感覚的な気持ちよさに誘われて、つい書きたくなる…みたいなのは、たしかにある。僕もこの紙を使うとさらさら書きたくなるもの。特に僕は小学生の子どもたち相手なので、そういう感覚的な心地よさは思う以上に大事かもしれない。

うっかり力がついてしまう本

僕の想定していた、ライティング・ワークショップでの課題とはやや異なるけれど、勉強会で「うっかり力がついてしまうアクティビティが多い」と推薦してもらったのが『中学国語ラクイチ授業プラン』。僕も持っていたので後で見たが、素材(ソフト)と学習活動(ハード)を組み合わせる発想で、1時間でできそうな短いゲーム的アクティビティがたくさん載っている本だ。たしかに「ことわざおみくじ」「助詞の世界」「ムリヤリロジック」など、楽しそうで結果的にうっかり学べてしまうアクティビティがけっこうあった。ネタとして持っておきたい。

あとは、実践を通じてつかんでいこう

プレーパークのような課題を出す。もちろんそれは「言うは易し行うは難し」の領域だ。ただ、「子どもを自由にする制約は?」と考えるよりも「プレーパーク」という比喩があることで、ぐっとイメージが立体的になり、ゴールに近づいた気がする(これぞ言葉の力!)。年末に『社会科ワークショップ』を読んだ頭で勉強会への準備をしたからこの比喩に出会えたのだと思うし、今日の勉強会で参加のみんなにも考えてもらって、少し整理もできた。あとは、実践を通じてつかんでいこう。年明けからの国語の授業が楽しみになる勉強会だったな。

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