「心の正しさの演出力勝負の場」としての作文

文科省の諮問委員会が、道徳の教科化に関する答申案を固めた。毎日新聞によると、「授業は原則、学級担任が担当し、評価は「個人内の成長過程を重視すべきで、数値はなじまない」として、作文や面接、授業での発言を基にした「記述式」が適切」ということになったらしい。

大事な前提を書いておくと、僕は道徳教育については完全な素人。数値化はおそらく論外だから評価が記述式なのは妥当だろうし、そもそも道徳教育は道徳教育における有効性を優先すればよく、そして何が最も有効なのかは、素人の僕にはわからない。だから、今回の答申が「道徳教育的にどうなのよ」ということは、僕には言えない。しかし、それ前提で横やりを入れると、道徳教育の評価の材料として「作文」が使われるのは、国語科の立場からいえば、正直ちょっと気になる面もある。

というのも、国語の授業における「作文」は、ただでさえ「何となく道徳的に正しいことを書くもの」と生徒に思われている節があるのだけど、今回の決定がその風潮を助長する可能性があるからだ。

学校での作文であれなんであれ、どう書いても文章にその人の考えは表れてしまうものだし「文は人なり」というのはたぶん間違ってない。けど、学校みたいにその文章を常に評価する側(つまり先生)がいて、その評価者が「文章を読めば書き手の心がわかる」ことを前提にしていると、ちょっと面倒なことになる。評価される生徒の側に、先生の視線に「適応」して「心の正しさ」をアピールする生徒が必ず一定数表れるからだ。「一定数」というよりも多数がそうするんじゃないか。かくして、作文は心の正しさの演出力勝負の場になる。

思えば僕自身も小学生時代は今思うと過剰に「適応」していた子どもで、行事の作文でも、担任の先生によって意識的に作文を書きわけていた。細かい所では「ですます調」か「だ・である調」も、担任の先生の好みによって使い分けていたし、もちろん内容は「心の正しさ」を演出するものだ。どうも「優等生が、一度その路線から外れたあとで、その後反省して成長する作文」が先生受けが良いとわかってからは(読書感想文コンクールの過去受賞作品の傾向を調べた時に、そういうのが上位にあったのが印象に残っていた)、そういう作文を書くことが増えた。今思うと稚拙だし先生も見抜いてたのかもしれないけど、まあ子どもながら全力で先生受けを狙ってたわけ。きっとみんなも程度の差はあれ、そんな風に先生の顔色を伺いながら、「本心はともかく学校の先生向けにはこう書いておけばOKだよね」という書き方を身につけていったのだと思う。

そういう書き方を身につけるのも一つの技術の習得。しかし、作文教育的に問題だなと思うのは、(1)実質的に学校文化への適応度合いをはかっているのに、そのルールが明示されていない(ルールに気づけない子が不利)、(2)暗黙のルールに基づいているので率直なフィードバックが得られにくい、(3)先生以外の具体的読者を想定して書く機会がない、(4)学校文化への適応度合いが優先されるあまりに、論理性など他の観点がおろそかになりがち、あたりか。(4)については、たとえば環境問題について、それまでの文脈と関係なく「私たち一人一人が意識して地球を大切にすることが大事だと思いました」で終わらせる作文に、その弊害が端的に表れてくる。一人一人の意識で簡単に解決するならそもそも社会問題になってないよ…。

そんなわけで、ただでさえ学校での「作文」というと「道徳的に書けばOK」で、書く技術、特に書く途中のプロセスで用いる技術にフォーカスされにくい傾向がある。もちろん全てがそうではない。特に近年の国語の教科書ではそれらにフォーカスしたものも増えてきている。「作文=道徳」から抜け出して、文章を書く技術や楽しさを教えようとしてる先生がたくさんいることも知っている。しかし知っているだけに、今後、道徳の評価の材料に作文が使われることで、「作文=道徳的に書けばOK」という嬉しくない傾向が強まらないか、ちょっと心配。どうなるかな?

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