人の振り見て我が振り直せ、添削指導にありがちな罠

現在、朝から夜まで必死でレポートを書いております…。必死で、と言っても論文を読んだりうだーっと考えたりしながらなので、傍目には必死に見えないのが辛いところ。そんなところに、中間評価となるレポート下書き原稿へのフィードバックが先生から帰ってきた。今日はそれについて思ったことを手短に。

注文に応えようとすると字数制限を超過してしまう

このフィードバック、全体的なコメントに加えて部分部分にも訂正や疑問点や注文が書き込まれるいわゆる「添削」である。で、僕のチューターの先生もたくさん書き込みをしてくださっていてありがたいのだが、基本的には「ここをもっと書け」「ここをもっと根拠づけろ」という注文が多い。ところが、この注文にすべて応えようとすると、どうやったって字数制限を大幅に超過するのである。これって添削指導にありがちな、僕もよくやる罠だよなあと思った。

大学のレポートに限らず、書く文章の多くには字数制限がある(このブログのように字数制限がないと、ついダラダラ書いてしまって、いけませんね…)。そこで重要なのは、「何を書くか」と同時に「何を書かないか」という判断だ。もしも「このAをもっと詳しく書く」ことが必要であるなら、単に「Aを詳しく書け」だけでなく、「その代わりにこのBという箇所を削れ」という指示が必要だし、そして「なぜBよりもAが重要なのか」を説明することも必要になるだろう。

人の振り見て我が振り直せ、です

この先生と同様に、僕も生徒の原稿を読んでいると「足りないところ」ばかり気になってしまいがちだ。でも、全体の字数制限の中のバランスという観点から、「それでも決定的に足りないところはどこか、それはなぜか」「そこを書くとしたら代わりにどこを削るのか、それはなぜか」ということを常に意識しないとな、と思った。人の振り見て我が振り直せ、である。

しかし一方で、それを全部添削コメントで書くのはやってられないよ、とも思う。生徒とのカンファランスなら「じゃあ、代わりにどこを削ろうか?」と質問する形で生徒に考えてもらうこともできる。やっぱり、添削よりもカンファランスができればそれに越したことはないような、というのが本音。

そもそも添削はそんなに効果的でない、という記事

ところで、僕は、以前、この添削について書いたことがある。結論としては、少なくとも僕のいる教室環境(40人学級)での添削には批判的、より正確に言うと「苦労の割に報われない」というもの。現実的な諸条件(生徒数や時間)を加味した時、英語圏でのフィードバックに関する研究などをもとにすると、教員の個別添削が学生の相互評価よりも効果的であると判断するには根拠が乏しい、というのが僕の立場だ(ただ、同時に大学での論文指導などでは効果を発揮する環境が比較的整っている、ということも書いた)。過去の記事になるけど、今読み直しても妥当なことを書いていると思うので、興味のある方は是非読んでみてほしい。

添削が効果的に機能する条件(1)

2014.10.28

添削が効果的に機能する条件(2)

2014.10.29

添削が効果的に機能する条件(3)

2014.10.30

添削が効果的に機能する条件(4)

2014.10.31

添削が効果的に機能する条件(5) まとめ

2014.11.01

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2 件のコメント

  • 確かに。つい不足に目がいきます。添削だけでなく、評価全般にいえるように思います。まずは、削ることを考えよ、でしょうか。