書くことは難しい。話す・聞くと違って、「書く・読む」は本来は人間の遺伝子に組み込まれていない、複雑な行為である。大勢の人が読めない・書けない時代が長く長く続いたのだ。だから、「丁寧にステップを踏まないと書けない」とばかりに、「どう書かせるか」ことを熟慮した指導の手立てが、書くことの教科書にはあふれている。たとえば、某社の2年生の物語創作の単元は、物語のはじまりとおわりが決まっていて、その間を書くのが長い間の定番である。でも、その必要性について改めて考えたくなる授業に出会った。
「ものがたりをつくろう」授業開き
今日、某市某小学校の2年生「ものがたりをつくろう」単元の授業開きを見学した。この日、前に立つ「先生」は2名の児童、あきらくんとむさしくん(仮名)。聞いたところによると、なかなか教室に入ることができない2名で、あるとき、別室で担任の先生が聴き書きをする形でお話を書いた。今日は、その2名が先生役になって、みんなにその物語を披露するミニレッスンなのだ。
披露したのは、A3用紙を折って切ってつくる8ページの簡易な折本「あきらとむさしのぼうけん」。それを書画カメラでモニターに写す。読み始める。みんなの目はくぎづけだ。お話の中のあきらとむさしが、沼にハマったり熊に出会ったりと、ピンチになるたびに、読者から笑い声がおきる。終わったら大きな拍手。「また読んで!」のアンコールまで飛んできた。2名は、他にもマイクラをもとにした「マイクラのたび」や「あさやきゅう」という作品を披露して終わった。
「物語書ける子はどんどん書いて」
その後、ふだん教室を飛び出してしまう2名の「先生」は誇らしげな顔で、教室の前と奥の2グループにわかれて、クラスメートに折れ本の作り方の指導をはじめる。小学2年生なので、折本をつくるにも時間がかかる。ややあって作り終えた子が増えたあたりで、担任の先生がひとこと。「物語書ける子はどんどん書いて」。今日、この先生が言った国語的な指導言は、これだけだ。考えてみると、なんて雑な指導言(笑)
でも多くの子が、どんどん表紙のページから書き始める。すごいすごい。見て回ると、「やもりのぼうけん」「サッカーものがたり」「ゆかさんとゆづきのパーティ」「マイクラ」など、あきらくんとむさしくんの影響が明らか。あれは、子供たちの「やってみたい!」を引き出すだけでなく、内容のインスピレーションも与える強力なインストラクションだったのだ。
自分にこれ、できるかな?
僕はこの光景を感嘆しながら眺めていた。仮に自分がこのクラスの授業をしたとき、2名の作家さんの発表にくいいる子供たちの様子をちゃんと受け止めて、「どんどん書いて」だけの雑なインストラクションで済ませられただろうか。つい教えたがりの虫が出て、2名の作品を材料に余計なミニレッスンを一言してしまったかもしれない(実際、2名の作品はミニレッスンの宝庫でもあった)。でも、そこをぐっと堪えると、教師が特に何も指導しなくても子供たちは書き出すのである。子供たちの様子から「ここは何も言わなくて大丈夫」と判断できるかな、自分は。
何より、この先生の力量の凄さは、ふだん授業に入らない2人と関係をつくり、3名で共同作品「あきらとむさしのぼうけん」を作ってしまったことにある。あきらくんとむさしくんは、字を読むのも苦手なのに、今日にそなえて一生懸命自分の作品を音読練習していたらしい(つまり、勝手に国語の勉強をしていた!)。そうなったらもう、授業が始まる前に、おおかた成功は見えている。だからこその雑な指導言だったわけでもある。とはいえ、教師のインストラクションがほぼないのに、仲間の作品に刺激されて子供たちがどんどん書き出す姿は、見ていて楽しくなってしまう。いいものを見せてもらったなあ。そんな満足した気持ちで校舎をあとにした。