滑川道夫『日本作文綴方教育史3 昭和編』を見ていたら、ちょっと面白い記述があった。著者の滑川自身が、自分の指導した尋常小学校5年女子の「通行するものの研究」という作文を、「調べる綴り方」の先駆けとしていたのだ。1930(昭和5)年の11月の作品である。
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新屋町から秋田市に行く道路に立ち、新屋町方面に行く人と秋田市方面に行く人の数をそれぞれカウントし、その理由を考察する作品だ。滑川の指導した学級からは、この野崎安子の「通行するものの研究」と、「私の家」という課題作文が翌1931年の『綴方読本』に掲載され、「調べた綴方」として注目されたらしい。
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滑川道夫という人は、大作『日本作文綴方教育史』を晩年のライフワークとしていたように、とにかく大変に作文教育史に詳しい。その滑川がこれらを以て「調べる綴方の出発」と述べているので、相当調べた結果なのかなあ。でも、大正時代に自由教育を展開していた私立や国立の学校にも、調べ学習の結果を作文にまとめる機会ってあったんではないかな。頭の中に入れておいて、何かのついでに調べてみたいと思う。
5/5(追記)
記事公開後にツイッターで反応を頂いたので補足。この滑川の実践は今和次郎・吉田謙吉『モデルノロジオ 考現学』(昭和5年)に影響されたもので、滑川自身がそのように回想している。僕はあまり知らないのだけど、当時、「考古学」に対して現代の風俗を探る「考現学」が流行していたらしい。