以前に僕もブログで書いたことがあるけれど、僕も「人は物語によって生きている」と思う。
そして、このテーマを扱った千野帽子「人はなぜ物語を求めるのか」がとても評判なのだそうだ。僕もやっと読んでみた。タイトルだけの内容だけでなく、「物語との上手な付き合い方」を提案している本だった。
目次
人はストーリーを作ってしまう
この本で書かれているのは「人は世界や自分を物語形式(ストーリーとしての出来事の報告)で理解しているのだ」ということだけではない。もちろんそれがベースにあるのだけど、そこから派生した様々な話題が面白い。
たとえば、「人が不条理なできごとに接した時、「なぜ?」という問いが起こり、ストーリーがそれに無理やり答えようとする」という話。突然の災害や不幸に襲われた時に僕たちが求めているのは「理由」ではない。「なぜ自分が癌に?」という問いが求めているのは、年齢と癌の関係についての説明ではなくて、「なぜ他の人ではなく自分が?」という問いへの実存的な答えなのだ。僕たちは、本当は理由などない「そこ」に、無理やりストーリー形式の答えを作らずにはいられない。そして、多くの場合、そのストーリーとは、自分にとっては既知のパターン化されたストーリーにすぎないのだ。
「山月記」の李徴も同じ?
ちょっと話がそれるが、高校の定番教材「山月記」も、僕は「不条理に出会った李徴がストーリーを作る話」として読んでいるし、生徒に僕の解釈を求められればそう答えている。虎になった李徴が、その不条理に耐えられず、虎になった「もっともらしい理由」を無理矢理に作る話。虎になった理由なんて、本当はわからない。世界は因果律でできているわけではないし、理由のない「突然の不幸」としかいいようがない。でも、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という性格による「因果応報譚」のパターンに落とし込まなければ、李徴は自分が虎になったことを受け入れられないのだ。旧知の袁傪を相手にそのようなストーリーを作り上げて語り終えた時、李徴は虎になった自分を受け入れることができた。ただ、繰り返しになるが、そのストーリーが「真実」かどうかは怪しいし、実際に、地の文の語り手(三人称の語り手)が冒頭で語っている李徴をとりまく状況は、李徴自身の告白とは微妙な齟齬を見せている。僕にとっての山月記とは、そういう話なのだ。
ストーリーのもたらす不幸から逃れるために
僕たちにも、山月記の李徴のようなバイアスがある。例えば、「世界は公正にできているし、そうあるべきだ」という「公正世界の誤謬」を抱きがちな僕たちは、何か不幸な出来事に出合うと「それに見合った悪い原因」が自分にあるようなストーリーを作ってしまう。また、自分のストーリーの「話型」(こうあるべき、という「べき論」)を他者に勝手に当てはめて、その結果起こったり失望したりもする。さらに、自分が手にいれた自分の人生のストーリーを手放せずに苦しむこともある。山月記の李徴はある意味で「救われた」のかもしれないが、現実の僕たちは、ストーリーによって苦しめられることも少なくない。
この本の後半で重点が置かれているのは、ストーリー形式で世界を認知せざるをえない僕たちが、いかにしてその不幸から逃れるか、という話である。僕にとっては、ここが一番おもしろい。操作できない対象については考えないようにする。今のストーリーを手放し、「崖」から降りる勇気を持つ。自分のストーリーで自分自身や他人を押しつぶしたりしないよう、具体的な提言が提示されている。
学校の授業で物語を読むこと、書くことの意味
「人は物語で生きている」。この本を読むと、それだけでなくて、「人は物語によって生きざるを得ない」「したがって、物語との上手な付き合い方が必要だ」ということがよくわかる。国語の授業でも物語を読むこと、書くことの意味は、こういう観点からもまた捉え返すことができるのではないだろうか。
確かに我々は(けっこう都合のいい)物語を作りながら生きてますね。少なくとも自身で理解・納得できる物語にしかならない。でも、李徴に限らず苦しく訳の分からない不条理を感じたら、とりあえず物語をつくらないとやっていけない。それでも自分でその物語を作っている自覚があれば、また新たな解釈もできるようになり、その物語にがんじがらめにならないですむかも。何度も繰り返して思い出し、それから抜けられない人も多いですね。上手に物語とつきあうしかないかな。
おっしゃる通りだと思います。物語とうまくつきあうしかないですね。