以前に書いた下記エントリに関連して、作文教育における「制約」について考えている。制約はすべて不自由でわずらわしいものかといえば、そうではない。逆に制約がなく「自由に書いていいよ」と言われると全く自由に書けずに困ってしまう例もたくさん見てきた。逆に、制約があることで自由になる例もある。どういう制約であれば、子どもが自由になれるのだろう?
目次
作文教育によくある制約は…
まず、作文教育によくある制約を列挙してみよう。
- 書く題材やタイトルを指定する(「運動会の感想について書きなさい)
- 書く分量を指定する(400字以上800字以内で書きなさい)
- 書く時間を指定する(20分間で書きなさい)
- 書くジャンルを指定する(物語を書きなさい)
- 書くときの構成を指定する(パラグラフ・ライティングで書きなさい)
僕がいま考えているのは、こういう制約ではない。特に、書く題材・分量・時間を指定するのは、どちらかというと子どものやる気を失わせ、焦らせ、のびやかに書こうとする心を失わせるほうの制約ではないかと思う。4つめは僕もよくやる。しかし、これは良い制約ではないのかもしれない。物語を書くのは好きだけど意見文は嫌い。またはその逆。jジャンルを指定する限り、その好き嫌い問題からは逃れられない。また5つめの構成の制約は、教師側の指導事項によって生じる制約で、もちろんそれが子どもの力になるのだが、少なくとも子どもの目で見たときには、「先生の都合」による、おしつけられた制約として現れる。
僕が考えたいのはこういう制約ではなくて、子どもの側から見た時に、「この制約のおかげでやりやすくなった」と言いたくなる制約のことである。この制約のおかげで書きたくなった、この制約のおかげで書きやすくなった…「こんな制約を待っていた!」と知らずしらずのうちに思ってしまうような、「子どもの自由を生み出す制約」はないだろうか?
図工における「自由を生み出す制約」
この話を最近また考えるようになったのは、風越のラボスタッフ・こぐまさん(下記エントリで出てきた図工教師です)との会話だった。
図工と作文は、同じ「表現」領域という共通点もあり、作文のほうが社会的効用(実用性)を求められているという相違点もあるため、こぐまさんとじっくり話すと自分の立ち位置や目指すものが相対化されて面白い。彼は、5・6年生にスケッチを描いてもらう時に、次のようにしたという(文言そのままではなく、大意をあすこまがまとめたもの)。
白い長方形の画用紙をそのまま渡すと、見栄えの良い作品を描かねばと意識して描けない子どもが出てくる。そこで、まずダンボールを自分の手で適当な大きさにちぎってもらう。見慣れた素材であるダンボールを自分の手でちぎることによって「自分のもの」という親しみが湧く。描くのが苦手な子はそこで小さくちぎればいいのでプレッシャーも軽くなる。次に、そのダンボールの大きさと形にあわせて白い絵の具を広げる。それをキャンバスにして絵を描く。ごくありふれたダンボールを破いて、白く塗るという遊び的な行為をはさむことで、子どもが描いてみようという気持ちになる。
こぐまさんは、自分の図工の専門性をすべて「いかに子どもたちにやってみたいと思わせるか」に注ぐ凄腕の教師なのだが、この話を聞いた時も、そのしかけの丁寧さに感嘆した。ここでは、「ダンボールをちぎって使う」制約は、子どもたちを「見栄えの良い作品をつくる」意識から解放し、やってみようと思わせるための「自由を生み出す制約」になっている。
例えば、こんな制約は?
作文教育における、こういう「自由を生み出す制約」は何だろうか? 僕も自分なりにそれを追及していて、例えば、「説明と描写」ユニットとした前回の作家の時間では、「行く途中を描く」という制約を課した。これは、「誰かがなんらかの理由で、どこからかどこかへ行く途中を書くこと」という制約だ。この時は、こちらの指導事項として「描写を使ってほしい」という願いがあったのだが、「必ず描写を使うこと」という制約をかけなくても、「行く途中を描く」という制約をかけることで、おのずとその途中の道のりの描写が生まれるのではないかと考えたのだ。また、こうすれば、「誰が何の理由でどこに行くのか」を起点にして子どもの想像力が発揮されやすくなるし、ジャンルが一つに制限されることもない(物語でもエッセイでも詩でも良い。さすがに意見文は書きにくいかもしれないが…)。出てきた子どもたちの作品を見ても、描写に力を入れた作品も多くて、この制約はわりあい成功した気がしている。
以前に物語を書いたときには、「チェンジ」という制約を入れたこともある。これも、自由に物語を書いてと言われても困る子たちがいると思ったから。「チェンジ」の意味のとりかたは自由にして、『君の名は』のような入れ替わりものでも、物語の最初と最後で何かが変化するのでも良いとした。ここまで意味を拡大すれば、「チェンジしていない物語」などほぼ存在しない。でも、それでも「なんでも自由に書こう」ではなく「チェンジ」という制約があるほうが、子どもたちは確実に書きやすくなる。
「自由を生み出す制約」の2つの類型?
では、こういう制約はほかにどんなものがあるのだろう?風越の週1の国語科スタッフミーティングでもこの話をとりあげたのだけど、どうも「自由を生み出す制約」には2つのパターンがありそうだという話になった。
一つは、「その制約が子どもの想像力を刺激するもの」である。「行く途中」も「チェンジ」もそうだけど、その制約を手がかりに子どもが考え始められるものだ。りんちゃんが、「書き出し限定作文」の事例を教えてくれたけど、たしかに「書き出しを与える」のは想像力を刺激する制限になりそうだ。その場では、書き出しとして、「あいつはそういうヤツなんです」「真夜中の2時のことでした」「やめてください!」などの事例が出た。ただし、どんな書き出しでもいいというわけでもなさそうだ。例えば、『夢十夜』実践でよくある「こんな夢を見た」からはじまる作文は、夢の内容は最初から考えなくてはいけないという点で、子どもの思考の補助線にはならない気がする。また、「書き出し」ではなく「結末」を指定すると、これは制約の度合いが一気に強まって、自由に書けない子が増えていくだろう。このへんのあんばいは非常に難しい。
もう一つのパターンは、「その制約のおかげで、遊戯性が高まり、失敗が保証されるもの」である。つまり、この制約のおかげでうまくいかない事が前提となり、結果のプレッシャーから解放され、書く行為を楽しめる制約だ。例えば、下記エントリで紹介したラッキーディップも「運任せ」の要素が「良い作品を作らねばならない」というプレッシャーを軽減してくれる。むしろ、失敗したほうが面白い。
他にも「カタルタ」を使ったリレー作文や、指定した語句を使っての作文も、こちらの要素が強い制約だろう。こういう「うまくいかなくても大丈夫」な状況の時、人は想像の翼をはばたかせ、失敗を恐れず挑戦し、時にびっくりするようなすばらしい力を発揮する。
教師の指導事項をおのずと達成してしまう制約とは…?
授業である以上、ただ楽しく書くだけで力がつくというわけにもいかないから(いや、長い目で見るとそれでもいいのかもしれないが、短期中期的な指導目標をこちらも持っているから)、理想的な制約とは、上記の条件にかなった上で、しかも教師側の指導事項も達成してしまう制約である。「この技法を使いなさい」と指示する代わりに、その技法を使いたくなる制約をかける。2000文字以内で書きなさいと言う代わりに、自然とそのくらいに収まるような制約をかける….。
課題設定にあらわれる教師の力量
最終的には、教師の力量とはこういう課題設定に現れるものなのだろう。僕はといえば、残念ながら力量不足で、こういう制約をもった課題設定ができているとは到底言えない。しかし、意識はし続けたい。もしも、ある制約を与えることで、子どもが書きたくなり、書きやすくなり、かつこちらの指導事項も達成できたら、それは最高ではないか。考え、実践し、振り返ること以外に、こういう課題設定ができる道は開かれてこないのだから。
2022/1/6追記
この話の続きが下記エントリにあります。ぜひこちらもどうぞ!
あすこまさん
いつもブログを楽しんで拝見しております。現在、小学校でライティングワークショップに挑戦しています。「公立」なので、教科書の教材ベースで書くことの年間計画を作成しています。基本的にジャンル学習で進めていますが、その中でも説明文や紹介文はあまり人気がありません。
リーフレット形式で紹介文を書く単元があり、次のような課題設定をしました。
東京書籍 ふるさとの食を伝えよう
①題材は好きなものでOK。
②書き出しに条件あり。
小見出しとナンバリング
おすすめの理由を2つ以上
私の好きな〇〇についておすすめポイントを紹介します。
①小見出し
1つ目は〜です。例えば…
②小見出し
2つ目は〜です。例えば…
ジャンルは紹介文でしたが、テーマを自由にしたことで子どもたちは楽しそうに書いていました。おすすめの場所、本、遊び、食べ物、ゲーム、スポーツ、勉強方法、お菓子、などなど。これがあすこまさんの指す「制約」と言えるのかは分かりませんが、自由度を高く保ち、子どもたちが紹介文を書くのが楽しいと思える工夫になったのではと感じています。ただでさえ、制約の多い学校の中で、子どもたちの書く意欲を刺激する制約にとても関心があります。これからも学ばせてください。
紹介ありがとうございます。どういう制約がいいのかって常に目の前の子どもと相談で、奥が深いですよね。今後もよろしくおねがいします。