[ITM]授業中に「書く時間」を確保する意味

In The Middle読書日記。ようやく200ページを超えました。全部で600ページだから3分の1ですな。いよいよ第6章「Responding to Writers and Writing」、カンファランスの話に突入です。

 

この章でまず、アトウェルは自分の指導の基本方針を「一人のベテラン読者として反応すること」としている。「作文教師には、ルーブリックも採点基準も必要ない」(p206) という。ただ、自分たちの読者としての強みから出発するのだと。

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ここでわざわざルーブリックや採点基準を持ち出す点にアトウェルの意識がうかがえる。アトウェルに限らず、ライティング・ワークショップの作文教師には、ルーブリックを好まない人がいる。それは、ルーブリックが基本的に完成物に対する評価であり、「作品の質をあげよう」とするプロダクト・アプローチの立場だからだ。 プロセス・アプローチであるライティング・ワークショップが目指しているのは、究極のところ「書き手としての成長」であり、「作品の質の向上」ではない(もちろん両者は両立する部分もあるが、同一でもない。極端な話、「質の高い作品」を書いた後に、書き手がもう書くことが嫌になってやめてしまうケースがありうる)。

だからライティング・ワークショップでは授業中に「書く時間」を大幅にとる。僕の作文の授業でも、半分以上は生徒が個別に活動する時間である。これ、作文教育をよく知らない人の中には「時間の無駄じゃないか」と思う人もいるかもしれない。家で宿題としてやらせるべきじゃないかと。そうではないのだ。作文教師が指導すべきは「作品」ではなく「書き手」なのであって、その書き手に直接向かい合うには、作文を書いている書き手が目の前にいてもらわないと困るのである。

「書かれた作品にコメントするのではなく、書いている途中の書き手を教える」(p208)。これが、ライティング・ワークショップの基本理念。もっとも、ライティング・ワークショップの専売特許の考え方では全くなくて、日本でも大正時代以降の綴方教育で「膝下指導」と呼ばれて行われてきた指導法なんですけどね。 

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