繁忙期の先週、木曜日にはKAIさん(甲斐崎博史さん)とあっきー(木村彰宏さん)を講師に迎えたプロジェクト・アドベンチャーの連続講座 Adventure in the Classroom の第一回も開催した。この日は保護者会もあって、ふりかえると自分も本当によくやったな….(笑) 保護者会は同僚に支えてもらって、感謝感謝だったし、KAIさんもあっきーも忙しい時期だろうに、本当にありがたい。
さて、このAdventure in the Classroom、平日夜6時という厳しい条件設定だったけど、合計で18名の方が参加してくれてホッとした。風越スタッフ&保護者、東部小、中部小、西部小、大日向、お隣の御代田北小、果ては大日向や群馬県からも来てくださる方がいて、いろんな学校の方が知り合う機会にもなれたらと思う。
今回はKAIさんが最初のアクティビティの後、PAの歴史やそれを支える考え方についてレクチャーして、その後、あっきーのアクティビティという流れだった。出会いの時期にクラスでも使えるアクティビティがたくさんあったのだが、アクティビティリストなどについては参加者のみが入ってるグループページに書くとして、ここでは、ぼくの興味を惹いた話に限定して書きたい。
目次
PAとその源流・OBS
プロジェクト・アドベンチャー(PA)というと、クラスの人間関係づくりに活用されるイメージがあるが、そもそもの源流は、冒険教育のアウトワード・バウンド・スクール(OBS)にあるのだという。その源流の話が、僕のイメージしていた「PAっぽさ」とだいぶ違う印象があって面白かった。
源流・OBSは「個人」にフォーカス
OBSの原点は、ドイツの教育者クルト・ハーンが、イギリスでの船乗りの教育として創始した教育にある(日本アウトワード・バウンド協会のウェブサイト参照)。それは、25泊26日のようなハードで非日常的な自然体験を通して徹底的に「個人を見つめる、個人が変容する」ことが意図されたプログラムだったそうだ。PAというと「クラスの人間関係作りのアクティビティ」のイメージがあるが、元々は「個人の変容」にフォーカスが当てられていたわけ。
ここ、流布しているイメージ(人間関係づくり)か源流(個人の変容)かのどっちに重点を置くかで、同じ「PAやってます」の人でもだいぶニュアンスが違いそうだ。例えば、「クラスの目標づくり」の場面でも、前者の人は最初にクラスの目標を決めようとするだろうし、後者の人はまず個人の目標があり、「全員の個人の目標を達成するためのクラスの目標」を決めるだろう。この両者の違いは相当大きい。
ちなみにKAIさんは、かつては前者の考えでPAを実践し、のちには後者になる、という変容を遂げているそうである。下記の著作にもまだ前者の考えも残っていて、今からみると書き直したいところがあるという話もしてくれて面白かった。
源流・OBSでは、経験を「強制」する
もう一つ、PAのイメージと源流のOBSで異なると思ったのは「強制の度合い」である。OBSの精神の原点は、クルト・ハーンの次の言葉に代表される。
It is the sin of the soul to force young people into opinions – indoctrination is of the devil – but it is culpable neglect not to impel young people into experiences.
若い人たちに意見を押し付けるのは魂の罪であり、教化は悪魔のものです。しかし、若い人たちに経験を押し付けないのは、罪深い怠慢です。
つまり、自分の意見を子どもに押し付けるのは避ける一方で、若者が変容するような「経験」を選定し、それを子どもに「押し付ける」ことが教師の責務とされているのだ。もちろん、その「経験」の選ばれ方に選ぶ側の思想は濃厚に反映されるので(例えば、自然体験に限定する時点ですでに偏っている)、まあ、要するに強制である。「つべこべ言わずやれ。話はそれからだ」が出発点だったわけ。
一方で、僕の周囲のPAに興味を持つ先生って、「子どもに寄り添う」をモットーにして、「強制しない」「子どもの話をよく聞く」系のイメージがある。これはおそらく「ファシリテーター」という語のイメージからこうなったのだと思うが、こういうギャップも非常に面白いところ。
どうしてこういう変化が起きたの?
源流のOBSが学校教育に入ってPAとなる過程で、どうしてこういう変容が起きたのかは、個人的には興味深い問いだ。ここはKAIさんに直接聞いてみたいところだが、個人的な仮説としては、個人の変容をうながす過程では、安心安全な場が用意される必要があるし、その人の今の思考や感情を知った上で、そこからの自己決定による変容をうながす必要があることと関わっていそうな気がする。
つまり、個人の変容を促すための挑戦を選択しやすくするために、まずは安心安全な場作りという観点からクラスの人間関係づくりのアクティビティが重視されるようになった。また、強制された体験の中で個々の子どもに変容を促すには、ファシリテーターがその子の状態を看取って、変化するように働きかけないといけない。そのためにはその子の思考や感情を知る必要があって、そこから「寄り添う」イメージが重視されるようになったのかな、と思う。
ファシリテーターという存在
だから、源流・OBSの考え方を尊重すれば、PAのファシリテーターの最終目標はあくまで個人の変容にある。そこでの「寄り添う存在としてのファシリテーター」とは、「その子の希望をかなえる」でもましてや「甘やかす」でもなくて、「その子が変容するための体験を強制し、その子が変容するように常に観察し、必要に応じて働きかける」という、けっこう厳しい存在なのではないだろうか。
実際、KAIさんには、甘やかせないで圧をかける厳しさも感じることも多く、世間のソフトな「ファシリテーター」の印象とはだいぶ違うのだけど、でもKAIさんからすると、KAIさんのやり方こそが本来の言葉の意味での「ファシリテーター」なのかもしれない。
チャレンジ・バイ・チョイス再考
さて、もともとPAの源流であるOBSが、「個人の変容をうながす、強制度の高いプログラム」だったことを踏まえると、「チャレンジ・バイ・チョイス」のような、PAで大事にされている理念についても、もうちょっと考えてみたくなる。
チャレンジ・バイ・チョイスと強制のバランス
この「チャレンジ・バイ・チョイス」とは、「その日の体調や自分の様々な状態を考慮して、参加の仕方・チャレンジレベルなどを自分の意志で決める」考え方だ。KAIさんが講座で示した考え方の基本を、次に示してみる。
- 尻込みしそうなことに挑戦することは「チャンス」である。
- プレッシャー過多で自己不信が募った時は、自分の意思で中止できる。さらにやり直すこと、挑戦し直すこともできる。
- 重要なのは結果より、自己意思で挑戦したという事実である。
- チャレンジは誰からも強制されず、自分自身の選択と考えを尊重する。
- チャレンジレベルは自分で選択する。
- 周りがそれを認め受容する。
読んでいると、いくつか疑問に思うことがある。まず「4、チャレンジは誰からも強制されず」とあるが、源流のOBSは強制上等なので、そことどう折り合いがつくのだろうか、ということ。
これについては、講座の参加者のかたが「フレームワークは強制するが、その中で何を選ぶかは強制しない、ということでは」という趣旨のことを言っていて、まあそうなのかな、と思う。例えば、体育館という場で何かPA的な活動するとき、強制的に何かを活動しないといけないのだが、そこで自分が何をするのかは選べる、という感じだ。PAの場に入るけど、アクティビティ自体には参加せず、ストップウォッチを測って手伝ってます、が選べるというように。
「やらない」正当化にならないか?
でも、そうだとしても、「体育館でみんなの活動と関係なく本を読んでいます」は、「チャレンジ・バイ・チョイス」のうちに入るのだろうか。
おそらく僕がこの「チャレンジ・バイ・チョイス」という考え方を知ったら、まずそういう「やらないことの正当化」として使いそうだ。「PA嫌いだからやりません、本を読んでます。これもチャレンジ・バイ・チョイスですよね!」というふうに。そんなことにならないのだろうか?
そう判断したプロセスや自己について問う
もっとも、この疑問は上の「原則通り」に行けばすぐに氷解する疑問だ。まず、チャレンジ・バイ・チョイスとは、「その日の体調や自分の様々な状態を考慮して、参加の仕方・チャレンジレベルなどを自分の意志で決める」のであって、「参加しない」選択肢は与えられていない。そして、「本当に自分の様々な状態について考慮したの?」「どう考慮した結果そう判断したの?」「それは自己意志による挑戦の結果なの?」と、問い詰めることは可能だからだ。
だから、「PAが嫌いなんで体育館にはいるけど本を読んでます」という僕に向かって、ファシリテーターは問いかけるのかもしれない。「それは、あすこまさんにとってどんなチャレンジなの?」「自分にとってそれがチャレンジだと判断した根拠はどこにあるの?」 果ては、「ただのサボりじゃないの?本当にそれはチャレンジなの?」くらいは言われるかもしれない。そのへんで僕はもう答えるのが面倒くさくなっているはずだ(笑)
これは極端な例かもしれないが、でも、原則通りなら、このチャレンジ・バイ・チョイスって自己モニタリングと自己コントロールと、挑戦しようとする意志の上に挑戦の度合いを判断するという、結構厳しい概念である。原則通りにやったら息が詰まるので、実際にはもっと「ゆるく」運用されるのだろうけど、「チャレンジ・バイ・チョイス」が意外に甘くない感じは、今回資料を読んで印象的だったところだ。
体験学習サイクルって本当に有効なの?
最後にもう一つ、疑問に思ったことを書こう。PAのプログラムを支える個人変容のモデルとして、コルブの体験学習サイクルがある。これはよく知られているモデルで、僕もエクセター大学大学院でいくつかのリフレクションのモデルの一つとして学んだことがある。今回感じたのは、このモデルって実際どこまで使えるのかな、ということ。
KAIさんが「活動(やってみる)→振り返り(今、何があった?)→一般化(それってどういうこと?)→適用(次はこうしよう!)」というサイクルを提示した場面で、この「一般化」(経験したことから得た気づきを抽象化・一般化して、広い文脈で適用可能なものにすること)が難しい、ということが話題になっていた。
そこでは、どうやってその一般化を可能にするかという話があったのだけど、それを聞きながら僕が考えていたのは、「いや、学習の転移が起きるのが難しいのはすでによく知られてるだし、それって単にコルブのモデルがいけてないだけなんじゃない?」ということだった。
知識も創造性もそもそもが文脈依存的で転移しにくいことは、今日の学習科学ではよく知られていることだ。これまで僕がブログで触れた本でも、キース・ソーヤー『クリエイティブ・クラスルーム』や鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるのか』など、知の領域固有性について言及したものはたくさんある。
KAIさんは、「PAのアクティビティではとても協力的になったはずなのに、その後の休み時間の掃除では、そうでなくなってしまう」と言っていたが、それは当たり前の話に僕は思えた。だって、人間の知識ってそもそも転移しにくいんだもの。それなのに、なんで固有の体験から日常生活に転移可能な知識を生み出すことを目標にしているのだろうか。
普遍的な「ふりかえり能力」みたいなものがあって、ある体験でそれを伸ばせば、それがもっと別の体験に転移するという期待は、教える側にとっては都合が良いのだろうが、実際にはそんなことはあまり起きないのではないだろうか。こと国語の授業に関するふりかえり能力には一定の自信があるのに、それが家庭運営になるといっこうに発揮されない僕としては、PAの体験で得た気づきを日常生活に一般化しようとするアプローチ自体に、そもそも理論的に無理がある気もしている。この辺、実際のところはどうなんだろうなあ。KAIさんにも聞いてみたい。
とまあ、よくわからないことはたくさんあるのだけど、PAについてじっくり考えることも、体験することもできた第1回でとても面白かった。今後、9月までは月1回ペースで、10月からは月2回ペースで開かれるこの連続講座、KAIさんやあっきーから、そして周りの参加者の方からも、できるだけ多くを吸収していこう。この一年間、楽しみだなー!