熟達のプロセスは一本道じゃない

一泊二日で家族スキー旅行に行ってきた。今回は自己中な息子(6歳)に振り回され続けた2日間で、せっかくの旅行なのに夫婦ともに疲労困憊だったのだけど、そのことは書き始めるとキリがないのでやめとく(^_^;)

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ちょっと面白かったのは今回のスキー場で滑るのが2回めの娘(8歳)。運動音痴なのにスキーだけは楽しい彼女。去年、山頂まで行って大きく迂回する初級〜中級コースを初制覇し、勇敢に挑戦する様子に親ながらびっくりした。しかし、今年はちょっと違った。去年と同じそのコースを、今年は去年よりずっと怖がって、途中で泣き出してしまった。降りるスピードも去年よりずっと遅かったのだ。

今思うと、去年は初めてのスキー場でチャレンジするのが楽しくて、きっとハイテンションのままわけわからずに頑張れちゃったんだと思う。それが今年、一年ぶりに行ったら山頂からの高さやコースの狭さ、スピードを初めて意識して、怖くなったんじゃないかな。

作文教育では、熟達のプロセスは一本道じゃない、recursive(行ったり来たり)だということがよく言われる。生徒が文章を一定量を書けるようになると、その後、同じ話題を繰り返したり、分量がさほど書けなくなったりすることがよくある。それは一見すると「停滞」「退行」なのだけど、分量以外の質的な評価基準を身につける時期に表れる現象で、熟達のために必要なプロセスの一環として理解できる。

それと同じことが ――表面的には「停滞」「退行」に見えるけれど熟達のプロセス上で必要なことが―― きっと他の分野の習得でもあるんだろう。去年の娘は、楽しい気持ちいっぱいに、山頂からのルートに挑戦して滑り降りた。今年の娘は、怖くって泣きながら、ゆっくりゆっくり山頂から降りていった。でもこれは言い換えれば、恐怖に対処するために、自分の意図でスピードを慎重にコントロールできるようになった、ということだ。

さて、来年の娘は、どんな熟達のプロセスを辿るのかな?

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