ぼくはいわゆる「自由な校風」の学校に勤務しているので、「自由」をめぐる議論にはちょっと興味がある。まして、人々が「自由であること」の価値を自ら手放したがっているようにも見える昨今、「自由」を校風に掲げることの意味も気になっている。そんなこれからの社会を考える材料として、大屋雄裕「自由か、さもなくば幸福か?」が面白かった。これからの時代の行方を考えたい人にはおすすめの一冊です。
大きな時代の見取り図を描く
筆者はこの本で、「自由」をめぐる大きな時代の見取り図を描いている。まず近代は、とりわけ19世紀は「より自由であること」が「より幸福であること」と結びついていた時代だった。「自己決定(自己統治)する自由な個人」という近代的モデルが完成していった時代である。
ところが、20世紀末からの情報技術の進展により、すみずみまで監視が行き届き、かつ個人の意思ではなく周辺の物理的環境に働きかけることで個人をコントロールすることができるようになった。これは著者の前著「自由とは何か」に詳しいのだけど、「自己決定する個人」という近代的個人のモデルは、今や基盤を失いつつある。
そして、こうした視点から20世紀の政治を眺めてみると、「自由と幸福が一致する」という19世紀的な夢は、そもそも根底から再考を迫られていたことがわかる。私たちは自由を希求するのだろうか? もともと自由なのか、それとも「自由にさせられている」のか? 筆者は、自由というシステムの根本にそもそもの欠陥があったことを指摘する。
これからの社会はどうなる?
この本のありがたいところは、こうした大きな時代の見取り図を僕たち素人にもわかりやすく提供してくれることだ。一方で、では今後の社会はどうなるのか?というその後の章は、僕にはやや受け止めにくいところもあった。
まず筆者は、今後の社会のあり方として3つの選択肢を提示する。第一が、各市民が自己の信じる権利や価値のために相争う「新しい中世」(ざっくり言うと、幸福よりも自由優先の弱肉強食の世界)、2つめが、各人が、各々の意識としては自由に振る舞っているつもりでも、実はアーキテクチャにより規制・調整されている「感覚のユートピア」(自由よりも幸福優先の世界)、3つめが、ミラーハウスのように相互監視を徹底することでかえって全員を平等に扱う「ハイパー・パノプティコン」(不快だけど、それによって自由と幸福のバランスをとろうという世界)。
そして筆者は、19世紀的な「自由と幸福が一致していたシステム」に強い未練を見せつつも、自由と幸福を一致させるべく、3つの選択肢の中では「よりましなもの」として第三の社会を支持する姿勢を見せている。しかし…うーん、筆者もいうように、これほんとどれも嫌なんですけど…。読んだ他の人はどう感じるのかなあ…。ぜひ読んでみてください。
教育との関連は?
ところで、最初に書いたように、僕の学校は自由な校風の学校だし、僕自身、教育は「自由で自立した個人を育てる」ものだと思っている。その僕にとっては、次のような筆者の言葉は印象深かった。
すべての個人が生まれ落ちた瞬間から「個人」であることなどできるわけがないという事実を認識しておく必要がある。子どもは――ベンサムが考えた通り――適切に「個人」へと形作られなければならず、それは他者の幸福を実現するための我々の暴力的な配慮であるほかはない。本人の意思が実在しない場所で、我々は「自由な個人」になることを彼に対して有無を言わさず強制するしかないのである。p203
教育とは、他者の幸福を実現するための暴力的な配慮であり、自由な個人になることを強制するものである。うーん、なるほど。この言葉に対して、今の僕はうまく答えることができないけど、否定はできない。自由な学校の「自由」とは何なのだろうか。それはなぜ価値があるものとされ、なぜ生徒は自由を強制されるのだろうか。本当はこういう問題もとっくに議論されているのだと思うけど、今の僕の知識では思いが至らない。結局、近代的な個人を育てるための「自由」なのであり、その個人モデルが説得力を失いつつあれば、「自由な校風」自体の意味も薄れてしまうのではないか。そんな危機感がちょっとある。
例えば苫野一徳さんの社会構想や教育構想は、この本にはどのように返答するのだろう。「自由か幸福か」自体が問い方のマジックだって言うのかな。読後、そんなことも気になった。